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27th Alumni Association

彩の国いきがい大学東松山学園 2011年4月入学、2013年3月卒業の第27期生校友会です。

史歴会のページ

記事一覧      
2017. 3.17
3月史跡見学会「偕楽園・弘道館・水戸城址」を訪ねて
2017. 2.20
2月学習会(22回)『名前あれこれ
2017. 1.28
1月史跡見学会~「戦国時代展」及び「すみだ北斎美術館」の見学
2016.12.26
12月学習会(第21回)~『日本で何故、靴が発達しなかったか?』
2016.12.25
12月史跡見学会~川越散策&忘年会
2016.12. 3
11月史跡見学会~★もう一つの五稜郭★ 佐久市 龍岡城
2016.11.29
11月学習会(第20回)~『茶の湯を楽しみましょう』
2016.11. 2
10月学習会(第19回)~『日本人のルーツ』
2016.10.30
真田氏ゆかりの上田城/真田の郷を訪ねて
2016.10. 1
9月史跡見学会~日本平と久能山、そして箱根神社から箱根関所を訪ねて
2016. 8. 6
7月史跡見学会~昭和天皇陵・高幡不動尊・新選組ふるさと館を訪ねて
2016. 7. 7
6月学習会~『司馬遼太郎の世界』
2016. 6.29
6月史跡見学会~早稲田周辺の大名屋敷跡を訪ねて
2016. 5.28
5月史跡見学会~築地市場見学と隅田川周辺探訪
2016. 4.25
4月学習会~王朝時代の雅『伊勢物語を楽しもう』
2016. 4.24
4月史跡見学会~逆井城&将門公史跡めぐり
2016. 4. 5
3月史跡見学会~源氏ゆかりの地めぐり
2016. 4. 4
校友会28年度総会 クラブ報告会

本  文

『史歴会』活動だより-53

☆★ 2017/3 史跡見学会(58)探訪記 ☆★

メモ: 水戸歴史散歩「偕楽園・弘道館・水戸城址」を訪ねて

 

雪に兼六園(金沢市)月に後楽園(岡山市)花に偕楽園(水戸市)

平成29年2月26日に圏央道茨城県内の「境古河IC~つくば中央IC」が開通の結果、関八州史跡巡りを視野に入れている史歴会「史跡見学会」は、圏央道と常磐道等の直結により、日帰り巡り先として「常陸国・上総国・下総国」がより身近なものとなってきたのは大歓迎、幸いかなでした。

そんな状況下3月例会は、梅まつり期間中の水戸偕楽園界隈を訪ねて季節と歴史を楽しんでまいりました。参加者22名、いつも通り貸切りバスで高坂駅前を出発。やはりレジェンド・歴女様のおかげで好天に恵まれ圏央道は予想通り快適走行、あっという間の水戸到着の印象でした。

さて、我が史歴会の良さの一つは、団体ゆえボランティアガイドさんとお会いできるところ。今回水戸歴史散歩でも、市民観光ボランティア『歴史アドバイザー水戸』にお願いして、偕楽園でガイドさんおひとりと、また弘道館で別のガイドさんおひとりと待ち合わせ。各々ガイドさんの同行で、丁寧で分かり易い解説を聴きながらの充実した水戸情報を楽しむことができました。

今回の散歩コースは、「偕楽園内・好文亭・常盤神社(OPで義烈館)」を昼食前に、その後「弘道館・水戸城址」といったところでした。これだけ巡れたのも、圏央道開通のおかげとHWに感謝。

「水戸梅まつり」の会場である偕楽園(1842年創設)と弘道館(1841年創設)。ともに水戸藩第9代藩主徳川斉昭公により、偕楽園は「衆と偕(とも)に楽しむ場所」として、弘道館は「文武を学ぶ水戸藩校」として、互いに対をなす存在として作られました。

(一張一施の思想:文武修業の場である弘道館⇔偕楽園は修行の余暇に心身を休める場)

また偕楽園内は、「陰」と「陽」の世界観を意識して作られているので、そのコントラストを楽しむのも偕楽園ならではの魅力のひとつでした2015年には、「近世日本の教育遺産群 学ぶ心・礼節の本源-」として、偕楽園・弘道館とも日本の文化・伝統を守る『日本遺産』に認定されています。

尚、水戸から帰途の圏央道は快適走行とはいかず、埼玉県内で2件の事故に遭遇し、高坂駅帰着が予定より1時間遅れとなった。このことは、稀な史跡見学会当日として最後に付記しておきたい。

(鳩山旅人)


水戸歴史散歩 ①

水戸歴史散歩 ②

水戸歴史散歩 ③

 


◆【平成29年度クラブ総会】:417日(月) 1300~ ヌエック 研修室301

 

◆【2017/4月 学習会】:417日(月) 1400~  ヌエック 研修室301

(テーマ)『 源氏物語ちょい齧り 』 語り人:新井さん

◆【2017/4月 史跡見学会】:4月21日(金) *『東京銀座の歴史を訪ねて』

           幹事役:山本()さん・山本()さん・西沢さん・橋本さん

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『史歴会活動だより-(52

2月学習会(第22回)を開催

 テーマ名前あれこれ語り人・和田大二郎氏

語り人・和田氏は、史歴会では有名な蘊蓄の持ち主。トリビア?雑学王でもある(と言うと、氏からクレームがつくかもしれないが・・・)。その事は、今回の学習会テーマである『名前あれこれ』から見ても自明の理と、納得がいくはずである。自分の名字(苗字)には、どのような意味や由来があり、どのエリアにいかに分布しているのかを知りたいと思う人は多いはずである。

220日(月)13501630(内休憩10分間)正味2時間半(150分間)、受講者19名での2月学習会。名字の由来・歴史などに関する書物からの学説や語り人の蘊蓄のあれこれが、分かり易い熱弁をもって興味深く解説されたことを、まずもってご報告しておきたい。

さて学習会は、全国に多い名字上位21位:佐藤、2位:鈴木、3位:高橋)、本当にある難読名字(御薬袋:みない)などなどの情報発信からスタートした。日本の名字の数は約30万。世界で一番多い名字を持っている国はアメリカで約150万、中国では現在使われている名字の数は4,000くらい、韓国の名字は274種で金さんが2割以上を占めているとのこと。日本にはなぜこんなに名字が多いのか。佐藤、鈴木、高橋などのポピュラーな名字のルーツの説明はもちろん、知れば知るほど面白い名字の蘊蓄ご披露に受講者は感心した様子であった。言い換えれば「名字の雑学・名字の歴史」の入門コース学習会であった。

 講座の後半は、受講者ファーストを意図した参加型クイズ形式であった。先ずは史歴会会員全員の名字の(一般的な)出自を各々30名分解説、その都度受講者が反応してにぎやかとなる。また例えば、難解な名字に対して「なんて読むのでしょうか?」の難問クイズ。極めつけは、「キラキラネーム」の漢字をどう読むのか?・・・といろいろ読み方クイズで学習会が大いに盛り上がった。

最後に語り人がとり上げた名前が「キラキラネーム」であった。筆者もここ数年、日本人の子どもたちの名前、大変なことになっていると注目していた。「珍名」とほぼ同義、ネット上では「DQN(ドキュン)ネーム 」と呼ばれている。一般常識からは、かけ離れた極めて読みにくい名前群である。本当に実在する名前(法律的に受理された名前)である。語り人は、そのDQNネーム の具体的な名前をいろいろ挙げて「なんて読むのでしょうか?」とクイズ出し。例えば、
     爆走蛇亜 :ばくそうじゃあ・男  * 今鹿: なうしか・女   読めるわけがない!

     ここで話題のチェンジ ~ようやく思い出した! 語り人の言う押さえどころを

名字は、鎌倉時代の関東の武士団が土地への権利を主張するために用いたものに始まり、彼らの移住に伴って全国に広まり、あるいは新たに作られたという。江戸幕府による苗字・帯刀の制限、明治の戸籍法(壬申戸籍)の関連にも展開させてのレクチャーに納得。

また、名字の80%以上が現在の日本の地名に由来すること、そして明治時代の法や戸籍整備が現在の名字の体系を形作ったこと等も学習で知った。

 こうして、史歴会蘊蓄王としての面目躍如たる多くの学習解説もあり楽しいクイズもありと、時間を忘れた半日の学習会であった。語り人の次回講座での蘊蓄ご披露を楽しみにして・・・。

参考まで・・・・時間不足により、語り人が余り解説できなかった項目(との推測ですが・・・)

◆日本の戸籍制度の歴史

670年  大化の改新(645年)によって朝廷の支配体制が強化され、各地の豪族が作った戸籍に代わって全国的な「庚午年籍(こうごねんじゃく)」という戸籍が作られ、6年ごとに更新された。

安土桃山時代  豊臣秀吉による太閤検地が行なわれた。

江戸時代  幕府や寺社の作成した人別帳や宗門帳や過去帳が人民の登録簿であった。


壬申戸籍【じんしんこせき】

1872年(壬申の年)、前年の太政官布告戸籍法に基づいて作成された、明治政府による最初の全国的戸籍。それまでの戸籍の代りをなす宗門人別改帳が身分別記載であるのに対し、華族・士族・平民の別なく現実の戸(屋敷)単位に記載するものとされており、形式的ではあるが身分制を克服している点が画期的である。

◆現在の日本の法律(戸籍法)

人名に使用できる漢字については、常用漢字と人名用漢字に限定(戸籍法施行規則第60条)されているが、その「読み」については戸籍に記載されないため、全く規制がない。

戸籍法50条 1項「子の名には常用平易な文字を用いなければならない」

       2項「常用平易な文字の範囲は法務省令でこれを定める」

 この同条2項による委任をうけた規則60条「戸籍法502項の常用平易な文字は 

常用漢字表に掲げる漢字   別表第2に掲げる漢字   平仮名、カタカナ」

名前に使える漢字

人名に使える漢字の数(201517日現在)

  1. 常用漢字2136字種2136字体
  2. 漢字の表()(常用漢字の異体字でないもの)632字種650字体
  3.    漢字の表()(常用漢字の異体字であるもの)212字種212字体

字種としては、1.2136字種と2.632字種を合わせて2768字種になる。3.は、すべてが常用漢字の異体字である。また、字体としては、1.2136字体と2.650字体、3.212字体で合わせて2998字体になる。

名前の読み方は自由


使える漢字に制限はあっても、読み方に制限はない。だから、極端なことを言えば「太郎」と書いて「はなこ」と読ませることもできるが、初めて見る人が無理なく正しく読める方がよいだろう。ちなみに、漢字には「音読み」「訓読み」のほかに「名のり」という読み方がある。漢字辞典にものっているので、参考にしてみては如何。

記)鳩山 読人


2月学習会「名前あれこれ

 

◆【2017/3月 史跡見学会】:3月17日(金)

『偕楽園・弘道館・水戸城址を訪ねて』 幹事役:浅見・小出


❏『史歴会』活動だより-(42)

「6月学習会(第18回)」を開催 ★☆

テーマ:『司馬遼太郎の世界』 語り人・松山 孝基氏

司馬遼太郎は、なぜ昭和という時代を歴史小説化しなかったのか?

 歴史を学ぶ者としては、少なからず司馬遼太郎の歴史観・知識の深さに圧倒され、また影響を受けている、のではなかろうか。蛇足ながら、筆者が本格的に司馬作品に出合ったのは、現役時代の中間管理職研修会での教材の中であった。それは、「坂の上の雲」のリーダー像の読み取り・解読であった。その後、少しずつではあるが司馬作品に触れながら、史実に近い小説(歴史著述家)の風に魅力を感じ、その考え方に傾倒していった。

 6月学習会の語り人・松山氏も、話のはじめに「司馬さんの作品を読み進むうちに、そのユニークな発想と特異な歴史認識にずんずんと心が引き込まれていった」と述べられている。没後20年を経過した今でも・今だからこそ学習会のテーマとして選び、司馬作品を通して彼の「考え方と魅力」を紹介したい、とのことであった。

 時間の制約上、学習会で松山氏が取り上げた作品は、以下の4点であった。

①「明治という国家」②「この国のかたち」③「21世紀に生きる君たちへ」④「洪庵のたいまつ」

緒方洪庵

 松山氏は、上記4作品の抜粋した文章コピーを準備され、これらを教材に受講メンバーに丁寧に紹介&解説されていた。また氏は、講義の合間にタイミングよく我々受講者に課題を問いかけ、そして意見交換を共有しながら講座を進められていた。松山講師の熱弁とメンバー各位の活発な発言もあり、講座中途にあるいつもの休憩タイムもとらずの状況、そしてそのまま学習会はエンドを迎えた。お陰さまで、短時間の中「明治から昭和にかけての司馬ワールド」を楽しむことができた。

 さて、学習会での具体的な内容をこの際文面に求めるのはやめにして、以下もう少し歴史好きの方々が周知の「司馬遼の一端」を勝手に記して、6月学習会の受講感想に代えたい。

 司馬さんは「日本人とはなにか」を追求した作家として世人は認識しているはずである。そのことの意味する作品を多く世に出し、いわゆる司馬史観を作ってきた。

 今回の松山氏学習会でも、その中から①~④の作品がピックアップされ、しっかり解説された。

 ところで、司馬遼太郎の出発点は自身の戦争体験にある、といわれる。

  *なぜ当時の陸軍では、このような不合理がまかり通ったのか?
  *いつから日本は、そのような国になってしまったのか?

 司馬さんは1905年(日露戦争勝利)から1945年(太平洋戦争敗戦)のあいだの40年間を「鬼胎の時代」と呼ぶ。それ以前とは非連続な特異な時代。しかしそのずっと以前から、日本人の中には、なにか種(病根)みたいなものがあって、それがこの鬼胎の時代に噴出してきたのではないか。例えば日本人に昔からある悪い特性として、

  ○ ひとつの空気のような流れができると、それに押し流される
  ○ 日本人は、守備範囲は効率的だが、想定外の事態には対応が弱い
  ○ 情報を内部に貯め込み、組織間で共用しない

 先ほどの疑問を追求するために、司馬さんは『戦国時代から始めて幕末まで』の小説を書き、その中で日本人とはいかなるものか、日本人のリーダー像はなにかを常に考えてきた、といわれる。

 18才選挙権も今夏からはじまる現在、今の若い人達は司馬遼太郎を読むのだろうか。
司馬さんが若者に残した遺言、~「21世紀に生きる君たちへ」「洪庵のたいまつ」等々
   (1)思いやりのこころを持つこと
   (2)自己を確立すること
がどういうことなのかを具体的に理解するためにも、是非、司馬小説を読んで、すばらしい日本人に触れてほしいと願うところである。~司馬作品が多すぎて大変ではあるが・・・・・。

 最後に、一方、司馬史観なるもので、司馬遼太郎批判というものがある事実も、付記しておく必要がある。司馬遼太郎の二面性、つまり小説家としての司馬さんと評論家としての司馬さんを、ごちゃごちゃにすることから生じた批判であるが、小説家としては、歴史というものに興味が無い人をも歴史にひきつけていく、ガイドとしての功績は非常に大きいと思われる。また、「日本人とは何者か」という歴史評論家としての彼の鋭い切り口は、今なお色あせることなく、傾注に値するものがあるのではないだろうか。

記)鳩山 読人


6月学習会フォト~司馬遼

◆2016-7月例会のご案内~八王子・日野界隈
                   ~チラシはこちら


❏『史歴会』活動だより-(41)

2016/6月史跡見学会(第51回)を開催

早稲田周辺の大名屋敷跡を訪ねて

 史歴会第51回見学会は、都内早稲田周辺に残る大名屋敷跡周辺の名跡を訪ねて、江戸の名残りを探索した。
 通勤ラッシュが解消した朝9時30分、女性11名・男性10名計21名のメンバーは東京メトロ副都心線・和光市駅ホームに集合、乗車30分弱の西早稲田駅に向かった。降車後は、西早稲田駅から一駅手前の雑司ヶ谷駅間の名跡を訪ねての約6km、すべて徒歩での行程、暑さで無理なら途中離脱も可?・・・、幹事としては2回の下見の末立案したプランである、念のため。

*最初は駅から5分の真言宗『玄国寺』。創建は慶長6年(1601)との事、事前にお願いしてあったとはいえ住職・坊守さんの丁重なお出迎えを頂き、お茶の接待を受けながら寺の縁起をご説明頂いた。

①玄国寺~笹竜胆

 山門を入ると右手に庫裡がある。建物は明治の元勲『岩倉具視』公の旧邸を移築したものとの事、公は村上天皇の血筋をひく源氏の一門ということで鬼瓦に笹竜胆(ささりんどう)の紋章を見ることができる。ちなみに明治16年、病の床にあった岩倉具視を明治天皇が見舞いに訪れたときの建物と言われている(移設前は馬場先門にあった)。庫裡の玄関右には樹齢600年といわれる黒松の巨木が、雲の中を昇天する龍の形にも似てそそり立っている。
 ご住職らの見送りを受け山門を辞し、すぐ隣の『諏訪神社』に向かった。玄国寺はこの神社の別当寺であったと記されている。

『諏訪神社』は徳川家とのつながりが強く、寛永年間(1,624~1644)に3代将軍家光が社殿を造営、鷹狩の折には立ち寄るようになり、4代将軍家綱は鷹を奉納、鷹狩関連の絵馬が多数奉納されているとの事、残念ながら今回は拝観できなかった。
 現在の社殿は昭和55年の建築。正面に菊の御紋が大きく目立つが、これは明治15年、近くに近衛隊大久保射的場が建設され、開場式と射的砲術の天覧所が境内に設けられたためで、明治天皇射的砲術天覧所阯の史跡碑が建てられている。

水稲荷神社

*諏訪神社を後にして歩くこと15分、有名な堀部安兵衛の「高田馬場の仇討のあと」付近を通過して『水稲荷神社』へ到着。「江戸名所図会」には文亀元年(1501)扇ガ谷上杉家の当主・上杉朝良が霊夢によって宮を再興したと記されている。
江戸時代の半ば、境内のエノキの根元から霊水が湧出、この水で目を洗うと眼病に効能があったとされ、評判になり、水稲荷神社と呼ばれるようになったとの事である。(今では湧水はなくカラカラの状態だったが!)水に関係の深い消防関係者や水商売の人々に信仰されるようになったようである。

*水稲荷の北側に隣接する『甘泉園公園』に移動。

②甘泉園公園

江戸時代の初めは新発田藩主溝口家の屋敷であったものが、宝永7年(1710)に尾張徳川家の下屋敷となり、その後明和年間(1764~1772)に徳川御三卿の清水家下屋敷になった。明治になって相馬子爵家に譲られ、昭和12年から早稲田大学の所有となり”甘露な水が湧き出す泉”ということで早稲田大学付属甘泉園と名付けられ、その後新宿区に移譲され、昭和44年新宿区立公園になったとの事である。庭園は広くはないが(比較の対象が?)、斜面の湧き水から滝を作り、上段の池、下段の池の2つの池に注ぎ、深山幽谷の面影を演出している名園である。
 この時点で正午12時になり、徒歩で20分ほどの早稲田大学大隈庭園に向かった。

③早稲田大学~大隈講堂

*リーガロイヤルホテルの正面玄関から、一行21名はウォーキングスタイルで通り抜け、ホテルの裏庭ともいえる『早稲田大隈庭園』に入った。明治17年伊予松山藩松平家の抱屋敷だったこの屋敷を政治家大隈重信が入手、もともとの庭園を和洋折衷に改造、東側に芝生の庭園、流れと池を境に西側は和の庭園となっている。
 大隈重信は大正11年(1922)に没し、故人の遺志により庭園は早稲田大学に寄贈され、大隈講堂の塔が背景に映える若い学生達の憩いの場となっている。
 我々“いきがい大学生”は、孫と同年代の若い学生のひと息でむんむんとする、広大な大学学食で昼食を取り、一時の若さを満喫した!(さすがにアルコールはない)

*1時間余の休憩後、再びリーガロイヤルホテルを通り抜け、神田川を渡り歩くこと10分余の『関口芭蕉庵』に到着した。ここは俳人松尾芭蕉翁が2度目の江戸入り後、旧主筋の藤堂家が神田川改修工事を行っていて、芭蕉はこの工事にたずさわり、1677年から3年間この地に住んだといわれている。現在の建物は第2次大戦後に建てられたもの。園内は池や庭園が整備され、芭蕉の句碑もあり当時の面影を残す風情となっている。

④新江戸川公園

*我々はしばし俳句の世界に浸り、散策を楽しんだ後、隣接する『新江戸川公園』に移動した。この地は江戸末期、徳川御三卿の清水家の下屋敷になり、一橋家の下屋敷に転じて、幕末に肥後熊本54万石の藩主細川家の下屋敷・抱屋敷となり、明治時代には侯爵となった細川家の本邸となった。園内には細川家の学問所として使用されていたとされる2階建ての『松聲閣』(明治20年建設)が建てられており、2階から見た景色は、とても都心にいるとは思えぬ、ビル一つ見えない素晴らしい広大な日本庭園が広がっている。

*園内を歩いて小山を登ったところに、細川家伝来の美術品や歴史資料を展示した『永青文庫』が建てられている。理事長は18代当主の細川護煕氏(元内閣総理大臣)で歴代細川家に伝わる美術品、歴史資料や16代当主保川護立公の蒐集品が収蔵され、展示されている。我々が訪れた時には、『千利休と武将茶人』の展示が併催されており、茶道にたしなみのおありになるメンバーにはさぞや目の保養になられた事と思われた。
 隣接されている別館には理事長護煕氏の揮毫された書画、陶器が展示されており、一行はコーヒー・茶菓子をご馳走になりながら鑑賞させて頂いた。

*少々お疲れ気味の老体にむち打って、目白台の高級住宅街を歩くこと20分、最終目的地の『日本女子大学』にたどり着いた。我々年代には、有名なあのポンジョであろうか。

 門を入ってすぐの所に『成瀬記念館』がある。(早稲田大学と異なり、校内の散策は禁止された、当然か?) 
 成瀬氏は日本女子大の創設者で、1858年(安政5年)生まれ、NHK朝ドラの『あさがきた』の広岡浅子の友として登場している。広岡浅子の協力を得て、当時の三井財閥から、広大な東京・目白の地(現在地)を寄贈され1901年(明治34年)日本で最初の組織的な女子の高等教育機関であった日本女子大学を創設した。記念館では成瀬氏生涯の紹介とゆかりの品々が展示されおり、訪問時には、ちょうど広岡浅子の展示も行われていて、その関連を学ぶことができた。才媛揃いの会員にはジャストな締めくくりであった、と自画自賛。

 最後の力を振り絞って、終着地点・副都心線雑司ヶ谷駅へ、10時から15時30分まで本日の史歴会終了。 歩くこと2万歩、少々ハードな探訪だったかな~? 少し反省!

幹事 山本稔 記

仕切り線

早稲田界隈歴史散歩①

早稲田界隈歴史散歩②

早稲田界隈歴史散歩③

◆【2016/7月 史跡見学会】:7月15日(金)
      *『八王子・日野界隈の歴史散策』 幹事役:青山・吉本

          ・・・・・①大正・昭和天皇陵 ②高幡不動尊 ③新選組のふるさと歴史館


❏『史歴会』活動だより-(40)

2016/5月史跡見学会(第23回)を開催

史歴会50回記念見


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❏『史歴会』活動だより-
(51)

★❄☆★ 2017/1 史跡見学会(第57回)探訪記 ★❄☆★

「戦国時代展」及び「すみだ北斎美術館」の見学

上杉謙信の花押

 平成29年1月20日(金)に、私達は、史歴会「史跡見学会」平成29年1月例会として、東京・両国の「江戸東京博物館」の特別展「戦国時代展」と、その近くに昨年11月にオープンしたばかりの「すみだ北斎美術館」を見学しました。

 この1月20日は、「大寒の日」ということで、1年中で最も寒い日ということになっている中で、私達、会員総勢19人は、朝の9時に東武東上線池袋駅南口に集合しました。

 実は、この2~3日前から1月20日は、中国大陸からの大量の寒気が来て、東京は朝から大雨か雪が降るかもしれないという天気予報が出ていて、担当幹事は前日のぎりぎりまで、予定通り実行すべきかどうかで悩みました。でも、当会会員には、多くの晴れ女・晴れ男が在籍しているとのことで、当日になってみると、結局、曇ってはいましたが、雨も雪も降らず用意した傘は必要がない楽しい1日でした。

 さて、午前中は、JR両国駅から歩いて3分の「江戸東京博物館」で開催中の「戦国時代展」の見学でした。我が国の「戦国時代」は、15世紀末の室町幕府の衰退により始まり、上杉謙信・武田信玄・毛利元就・織田信長・豊臣秀吉・徳川家康などによる相次ぐ戦乱により秩序が大きく乱れた時代とイメージされてきました。

 ところが、これら有力大名たちが、この時代にそれぞれの領国の経営に力を入れた結果、絵画や茶の湯などそれ以前に京都で成熟した文化が地方へもたらされ、新たな地域文化が再生産され、地方の文化的・経済的な発展があったと、近年では考えられるようになったとのことです。

 このような考え方から、この展示会では、国宝の日本刀・合戦の様子や武将の姿を伝える重要文化財の歴史資料・国内各地の貴重な美術工芸品などが展示されていました。私達は、この展示会を見て、この混乱した時代にたくましく生きた人々の姿に感動しました。

 このあと、昼食はJR両国駅近くのレストラン「ちゃんこ霧島」、皆で「ちゃんこ鍋」におしゃべりしながら舌鼓を打ちました。お相撲さんは、毎日こんなに美味しい鍋料理を食べていれば、「さぞ、大きくなるし強くもなるね。」というのが私達の感想でした。

 さて、昼食後は、このレストランから7~8分歩いた所に昨年11月にオープンした「すみだ北斎美術館」を見学しました。ここでは、江戸時代末期に約90年の生涯のほとんどをこの墨田区近辺で過ごした葛飾北斎の浮世絵作品と、葛飾北斎と墨田地区との関わり合いを分かりやすく紹介していました。

 この北斎の浮世絵は、それまでの浮世絵のほとんどが、風俗画・美人画・遊里や芝居の情景などであったものを、歴史画・風景画・花鳥画にまで広げたことに大きな意味があったとのことです。また、北斎の「冨嶽三十六景」などの浮世絵が、19世紀後半のヨーロッパの美術にも大きな影響を及ぼしたとのことでした。

 私は、売店で、「冨嶽三十六景」の中の「神奈川沖浪裏」と「凱風快晴」(いずれも美しい富士山が描かれています)の絵葉書を購入することが出来ました。

 この後、ほぼ予定通り、午後3時30分には池袋に帰着し、解散しました。

以上

(文責:松山)


江戸東京博物館-①


江戸東京博物館-②


江戸東京博物館-③

◆【2017/2月 学習会】:2月20日(月) 13:30~  ヌエック 研修室109
    (テーマ):『 “名前“あれこれ 』 語り人:和田 大二郎 氏
        ⇒チラシはこちら


❏『史歴会』活動だより-(50)

「12月学習会(第21回)」を開催

 テーマ『日本で何故、靴が発達しなかったか?』語り人・礒領一氏

 今回の学習会テーマ「日本で何故、靴が発達しなかったか?」は、語り人のテーマ選定のきっかけがユニーク(藤沢周平・喜多川歌麿女絵草紙~夜に凍えて、を読んで江戸時代に靴はなかったのだろうか)、また視点もユニークと面白そうであった。そう思いながらの会参加であった。

1万500年前のサンダル(わらじ風)

 学習会数日前の12/9・10、BS-TBS「地球創世記」を観ていた際、二夜目のテーマ「最初のアメリカ人は海を渡った縄文人?」の中で、今回のテーマとリンクしそうな興味深い内容を取り上げていた。1万500年前のサンダル(わらじ風)が、米国・オレゴンの洞窟で発見されていた事実が写真入りで紹介されたのである。靴の歴史の第一歩では?と思いつつ、それが1万年を超えて残っていたことに驚いた次第である。

 さて、12月学習会に話を戻そう。講師役・礒氏の靴に関する情報収集&調査はビジュアルからの実証スタイルがメインであった。それを、歴史的な視点から説明・解説されて進められた。
例えば、古代の神の絵姿から ~埴輪ではどうか ~蹴鞠では ~壬申の乱では ~神官の木履では ~八幡太郎義家の姿では ~武田信玄(普段・戦闘時)では ~アイヌの人たちでは・・・・・等々からの解説が続き、


雪の浮世絵図

 メインは江戸時代の履物にこだわり迫った。この時代のビジュアルデータは、時代の世俗を反映している「浮世絵」が中心であった。江戸時代の履物例として、下駄~藁長くつなど16種を紹介しながら、雪の寒い日の江戸城下の履物に耐寒性があったのだろうか?特に路上商売人(駕籠屋・荷車引き・棒手振り)は一日中商売ができたのだろうか?・・・・・といった考察が数多く語られ、一方で数多くの質疑応答がなされた学習会であった。講師役の結論は、江戸の街で足全体を包む沓は必要なかった(但し、前記商売人の件は課題のまま)ことで、締めくくっていた。

 これまで歴史に関する埴輪や絵・写真などに関して、余り足元に注意を払ってこなかったが、今回の学習会以降、「足元に注目する」と歴史がもっと面白くなるのではないか、心掛けよう。

誠忠義士傳~大星

◆参考【靴の語源・由来】
 「ケルタル(蹴足)」の転や、足を納めるさまを表す擬態語「クツ」など諸説あるが、朝鮮から日本に多くの文物が持ち込まれたことから、朝鮮語の「kuit(グドゥ)」説が有力。 世界で最も古い履物は古代エジプト(2600B.C)のサンダルで西洋靴のルーツとなっている。
 日本では、軍靴の必要から明治初年に西洋靴が作られるようになったが、履物という意味での靴は、奈良・平安時代には既に履かれていた。但し、当時は上流階級のみが履き、庶民は裸足であった。
 鎌倉・室町時代には、鼻緒のある履物が発達し、靴は公家階級だけのものとなった。
 現在は、ほとんどが「靴」と表記されるが、装束の履物を指す際の靴は「履」と表記され、革製の履は「沓」と表記された。(語源由来辞典より)

記)鳩山 読人

仕切り線


12月学習会~靴

仕切り線

◆【2017/1月 史跡見学会】:1月20日(金)
       *『戦国時代展及びすみだ北斎美術館』 幹事役:松山・森脇
    ⇒
チラシはこちら


『史歴会』活動だより-(49)

★❄☆★ 2016/12 史跡見学会(第56回)探訪記 ★❄☆★

川越散策&忘年会

 12月例会は、恒例の忘年会を兼ねた小江戸川越の散策を実行した。
 川越の町は皆さん、折に触れて散策されており、今更と思われた方も多いと思ったが、今回はこの1年を無事に過ごせた事へのお礼詣りとして、寺社めぐり2時間ほどの散策を楽しんだ。
 参加者は女性10名男性9名、今回も史歴会で名高い晴れ女の力で晴天に恵まれ、川越市駅に12時30分集合、スタートした。

 まずは、徒歩15分の蓮馨寺。歴史は河越夜戦の天文18年(1549)河越城主の母・蓮馨によって開基されたとある。江戸時代の1602年、浄土宗の関東檀林の1つとなり葵の紋所が許された幕府公認の僧侶養成機関として、多くの学僧を育てたと記されている。我々一行は参拝の後、堂の外に鎮座するおびんずる様(触ると病気が治る)の頭やら膝やらにタッチして、来年の安寧を祈願した。

 次に、これも徒歩15分程度の成田山川越別院に向かった。交通安全で名高い、千葉県成田市にある本山、『成田山新勝寺』の最初の別院であるとの事。新年の初詣の時は、長蛇の列で参拝に長時間要するが、さすがにこの時期すんなりと参拝、今年の無事故を感謝した。
 続いて隣接する喜多院へ。皆さんよくご存じのこのお寺、歴史を紐解くと平安初期(830)淳和天皇の命で慈覚太師が建立、当初無量寿寺と号し、北院、中院、南院があった(南院は明治の初めに廃院)。慶長4年(1599)天海僧正が27世住職として入寺し寺号を喜多院と改めたと記されている。

ジャンボ絵馬(川越八幡宮)

 我々は丁重な参拝のあと、仙波東照宮・南院跡・中院を参拝し、川越駅近くの本日予定の最後の参拝所・川越八幡宮へ。境内には今上天皇ご生誕を記念して昭和8年(1933)に植樹された夫婦銀杏のご神木があり良縁、夫婦円満にご利益があると言われているとの事である。また歳末恒例の行事として行われている、川越第一中学校、山村学園高等学校の美術部の生徒さんらが書かれた見事な来年の「酉年の絵馬」が境内、そして道路に面して掲げられていた。

 本日の歩数、13,000歩、腹ごなしには適度な歩数か?お待ちかね、今年の締めくくりの忘年会場へ歩を進めた。忘年会場は川越駅西口近くのレストラン『エルミタージュ』。ロシア料理を想像させられるが、実はイタリアン。今回は支配人の特別な計らいで午後3時からの貸切パーティーとして頂いた。イタリアンのフルコース料理、フリードリンク、カラオケ付きのサービスでリーズナブルである。料理も下見させて頂いて(もちろん有料)魚をチョイス、満足のできる味であったと思っている。適度な散策、史歴会の1年の反省、料理、ワイン、カラオケに酔いしれた至福の1日であったと、幹事としては自画自賛。

幹事 山本 記


川越散策&忘年会


❏『史歴会』活動だより-(48)

★❄☆★ 2016/11 史跡見学会(第55回)探訪記 ★❄☆★

★もう一つの五稜郭★ 佐久市 龍岡城

 皆さん 函館の五稜郭は御存知ですよね、榎本武揚、土方歳三達が立籠った要塞です。
 同じ構造の城が長野県佐久市に有りますが、これを知っている方はかなりのお城通だと思います。
 史歴会は11月25日に行ってきました。

石垣の野面積

 バスで8時に高坂を出発、高速道で長野に向かう。昨日の雪が道路脇に残るものの天気は快晴、メンバーの中に大勢いる「晴れ女」のおかげと感謝する。現地でガイドと合流、すぐに説明を聞く。事前にいろいろ調べて行くがやはり地元のガイドには敵わない、公式に発表されていない事も実に詳しく知っている。

 閑話休題、面積は函館の約1/7(18,645㎡) 堀の幅は7.3m 土塁は高さ2.5m 幅7.3m、攻める側の立場なら標的は14.6m先で高さ2.5mに過ぎない、鉄砲は愚か石を投げても当たる。こんな城実用になるのかと聞いたら「殿様の趣味だ」とあっさり片づけられた。

 次は、地元出身の彫刻家【川村吾蔵】の記念館、日本ではあまり知られていないが欧米では有名で、戦後日本進駐の米軍から特別待遇を受けたとのこと。

投じ蕎麦

 昼食は予約の店で「投じ蕎麦」、時間節約のため「店に到着の時間を連絡するから付いたらすぐに食べられるように頼む」と約束をしていた。ところが到着すると蕎麦打ちを始めた。アレレと思ったが、先方は[蕎麦打ち実演]のおもてなしの様だ。そしてメンバーも喜んでいる。都会流の時間節約より、ゆったりと楽しむべきと反省させられた。

  
新海社三重塔

 午後は、戦国時代にこの辺りを治めていた武将(依田氏 子孫は家康に認められ 松平姓を賜る)の菩提寺、明治の廃仏毀釈の難を危うく逃れた重要文化財の三重塔、同じく長野県宝の梵鐘などを鑑賞した。

 午後のガイドは菩提寺の有力な檀家で、寺の奥深くまで案内してくれ貴重な仏像に拝顔する事が出来た。幸運とガイドに感謝。 

 前日の雪のせいか空気は澄んでおり風も無かった。高い所から観る佐久平の雪景色も素晴らしいもので恵まれた一日だった。投じたお賽銭よりはるかに御利益が有ったようだ。

文責 礒 領一

  


龍岡城-①


龍岡城-②


龍岡城-③


❏『史歴会』活動だより-(47)

茶室の花 「11月学習会(第20回)」を開催 お茶をたてる

テーマ: 『茶の湯を楽しみましょう』(語り・亭主) 崎山 操・長南みどり・臼澤一枝・小澤清江

亭主4人衆

 参加人数は少々劣るものの、秀吉の「北野大茶会」に勝るとも劣らぬ 『史歴会東嵐山大茶会』 おつかれさまでした。
 大変な事前準備をして頂き、貴重な掛け軸や茶道に付いての解説など、ありがとうございました。色々と講義と実習を受けました。聞いた事はあるけれど…? くらいで、知らない事ばかりでした。日本人なら誰でもその存在は知っているが、ほとんどの人は手を出した事が無いと思っていたのが〝茶の湯〟。 特に、なんにも知らない私は、「へぇ~ そうなんだ~・・・」と何度も思い、感心してしまいました。
 生れて初めての体験で、楽しい一日でした。 ・・・・・・・

  

 初めての企画でしたが、何よりも嬉しく思ったのは皆の気持ちがひとつに溶け合い、座敷の中で暖かい癒しの雰囲気に包まれていたことが嬉しかった。 ・・・・・・・

 ドイツ・イギリス・アメリカなどは勿論のこと、日本でも女性リーダーの活躍がみられる昨今、我が史歴会メンバーも歴女の参加が半数を超えている。そんな中でもあるまいが、女性視点の学習会・すなわち女性語り人の出現を熱望していたのは、男性である筆者だけではなかった。

正座して作法の指導を受ける

 今回ようやくその要望に応えてくれたマドンナ様達、その企画が、今回11月の《史歴50アニバーサル講座》と銘打った「茶の湯を楽しみましょう」学習会であった。いうまでもなく、語り・亭主は歴女4人衆、普段隠していた爪を見事ご披露されたと認識している。奇しくも2013年4月スタートした学習会も、今回記念すべき20回目であったことを付記しておきたい。

 さて、今まで男衆が経験してきた学習会の語り人の立場。言葉では簡単だが、いざその立場になると心構えと準備が大変。そんなチャレンジを承知の上で、半年前から準備に取り組まれていたのが歴女4人衆の中心となった「語り役の崎山氏、亭主役の長南氏」であったと聞いている。

 そこで、冒頭掲載の感想にもあったが、11月学習会の《さすがポイント》を参加したメンバーの一人として、また投稿文作成者の身勝手として、以下に記してみたい。

  • (1)「テーマの選定」がすばらしい
    女性の視点らしく、茶の湯・お点前だけでもGOODテーマにもかかわらず、加えて学習会の前段に「茶の湯の歴史・茶席の禅語」の話題を語るシナリオをもってきた企画は、さすが!
    • ◆僧家・武家・大名などの茶道が、いつから現在の如き女性の好む茶道となったのか・・・
  • (2)「全員参加型の学習会スタイル」を実現した ~今後注目すべき学習会スタイル・手法
    従来の学習会は、自ずと語る人が中心で、時と場合に質疑応答をとるスタイルであったが、今回は参加した20名が『薄茶点前の流れを知り、薄茶を体験できたこと』は、さすが!

  • 正客の作法を見学 結果学習会の場が、亭主4人衆・正客・次客など参加メンバー全員が《和気あいあいと和み》、
    • ◆茶席での聞きなれない言葉や単語に、質問しては納得したり納得できなかったり?・・・、そして
    • ◆初歩の基本的な茶席作法を知ることができた、また
    • ◆茶席の場が盛り上がり、予定外の『濃茶』要望に亭主が配慮、それなりに特別体験ができた、・・・など。
  • (3)上述より
    • ①史歴会女性メンバー:歴女=文化人=表千家あり・裏千家あり・茶道協会ありと多士済々
    • ②テーマ故ではあるが、学習会会場の空間・雰囲気が素晴らしかった(於、ヌエック響書院)
    • ③BACKUP亭主役(茶道の世界では半東というらしい)の臼澤氏・小澤氏にも、多々ご尽力下さった段、感謝の念を伝えたい。
    • ④また、正客役としての山本(小)氏、次客役の新井氏のお二方にも、お役目ご協力を謝したい。
史歴会綺麗処

 最後に、今回の学習会より感じ得たこと。それは当然ながら、次回早い内での「女子力学習会」開催への期待である。考えるにテーマ選定には事欠かないのではないか。例えば、書道あり・華道あり・着物織物あり・短歌俳句あり・古都巡りあり・・・etc. と教養・文化中心の分野だけでも楽しみなテーマがいっぱいかな。~これぞ身勝手翁の独り言かな~

『史歴会 女子力高く みなハッピー』 
『マドンナが 語る集いに 皆まどろむ』

記)鳩山 読人


茶の湯を楽しみましょう~①


茶の湯を楽しみましょう~②

◆【2016/12月 史跡見学会】:12月16日(金)
      *『川越散策&忘年会』 幹事役:山本・西沢・山本(小)・橋本
                    
チラシはこちら

◆【2016/12月 学習会】:12月19日(月) 13:30~  ヌエック 研修室109
    (テーマ)*『 日本で何故、靴が発達しなかったか? 』 語り人:礒

                     ~チラシはこちら

  

❏『史歴会』活動だより-(46)

「10月学習会(第19回)」を開催 ★

テーマ:『日本人のルーツ』 語り人・戸張 久男 氏

日本人のルーツはたった9人の母親だったと判明・・・

 今回の学習会は、19回目にして初の外部講師(クラブメンバー以外)を迎えた。といっても、いきがい大学東松山学園27期同窓生で仲間でもある戸張氏である。

日本人はどこから来た

 講師依頼のきっかけは、戸張氏との雑談の中で、我がクラブ学習会のHP内容に関してからだった。氏が言うには、古代史関係についてのテーマを取り上げていないが、学習対象として考えていないのか?との問いかけであった。それに応えて、クラブ学習会は歴史に関して時代限定はしていない、また内容もフリーである旨説明。すると、氏は古代に関して以前からいろいろ興味をもって勉強しているとの事、一方筆者の方も、NHK放映の特集「日本人のルーツ、日本人の祖先」などといった番組を見て興味を抱いていた矢先だったこともあり、ぜひこの機会に史歴会で講師をお願いしたいと戸張氏にお願いしたところ、快諾を貰った。結果、こうして10月24日(月)の学習会で語り人として実現した次第である。

 今回テーマはズバリ「日本人のルーツ」、古代史や考古学の分野では今が旬の内容との事で興味がつきない。史歴会としては、3年前に群馬県の「岩宿遺跡」を訪れ、日本にも旧石器時代が存在していた事実を初めて知った程度で、遠き学生時代に習ったであろう古くて数少ない古代知識を持つ我々で、そんな中での新鮮な古代史講座を聴く機会を得て、今回満足したのは筆者だけではないと思う。~最近は、古代史の常識が根底から覆されてきているようで興味が尽きない。

 講座内容は、プロジェクターを活用してのビジュアルな講座が中心だったため、非常にわかりやすく、加えて説明データ等はペーパー資料を手元に準備していただいた。結果、講師の語り説明に集中することができ大いに理解度が深まったと思う。

 具体的な説明で印象に残った項目を、個人的に少しピックアップしてみた。
〇縄文人と弥生人(古モンゴロイドと新モンゴロイド)の時代の流れ・特徴など、
〇そしてこれらが日本人のルーツだろうと。
〇一方、遺伝子DNA分析(ミトコンドリア)からみた日本人とは・・・、
〇更に原日本人系(縄文人)と渡来人(弥生人)の二重構造の中で混血あり、
〇その混血が今でもまだ続いているという。
 果たして、自分は「何人系?」だろうとの興味を持ちながらの学習会となったことは事実である。・・・個人的には、縄文人系がベース+弥生人系かな、やはり混血だ~!?

  上述した概要が今回の学習内容といえる。戸張氏のいう、
「現在の新しい情報をもとに数万年前から二千年前位までの日本列島で当時の人々が、どのような過程を経て、その後の日本人へと続いていったのか」といったテーマが、単なる概念ではなく、古代史や考古学から学びとり理解することができた、有意義な学習会であった。

~「出雲神話」はもはや神話ではない~

 戸張氏には、この場を借りて改めて御礼を申し上げる次第である。次回また、卑弥呼以降の古代史レクチャーを続編として希望してやまない。 ~ 古代史関連に造詣が深い戸張氏へ

記)鳩山 読人


10月学習会フォト~日本人のルーツ

●史歴会スケジュール確認報告
●史歴会H29年度活動スケジュール


❏『史歴会』活動だより-(45)

★☆ 2016/10史跡見学会(第54回)探訪記 ★☆

 真田氏ゆかりの上田城/真田の郷を訪ねて

 去年までなら「真田幸村って知ってる?」と聞いた時、「知ってるよ」と答える人は男で5割、女で2割程度だったでしょうね。ところがどうでしょう、今や殆どの人が少なくとも名前だけは知っているんですね!  NHKに煽られる形で、由緒正しい私達“史歴会”も信州は上田に行ってまいりました。

佐助&才蔵

 自慢するわけではないのですが(立派に自慢です)、私は子供の頃からの幸村フアンで、真田十勇士はいわば友達みたいなものでした。 「俺、佐助な!」と真っ先に名乗りをあげますと、遅れをとったライバルのユタ坊が「じゃ俺、才蔵だ!」、こうして次々に十勇士が出来上がります。 鵠沼の地では日が暮れるまで十勇士達がちゃんちゃんバラバラ、戦いに明け暮れていたものです(家康には誰もなろうとしなかったっけ・・・)。
 そんなわけで、「今頃にわか真田フアンかよ ふん!」なのですが、この際なので(どんなこの際だ)、故郷を訪れる気分で上田を見直し?て来ました。

◆ お断り

 池波正太郎の筋立てに合わせれば、上田城から上州の沼田城、特に一豪族から一国一城の城持ちになるにあたり、重要な役割を果たした当時の主城であった“岩櫃城”“砥石城”を見ておきたかったのですが、遠さと峻険な悪路を考慮し割愛しました。大阪の“真田丸” は遠すぎるので勿論却下。

◆ 上田城

 平日だと言うのに結構な観光客数。目星の蕎麦屋に断られたわけがわかりました。
大手門櫓を見上げ「御屋形様!久し振りに御座りまする」と先ずは挨拶。残っているのは本丸だけなので、とてもとても小さい。「上田城ってこんなに小さかったんだー」と勘違いの御仁がいないことを願う。これで7千の徳川軍に対抗できる筈が無いでしょ! 南北と西の櫓は当時からのものと聞き感動。現在は展示館として使われている。“真田井戸”“真田石”などを見ては感動しまくり。

 話は前後するが、ガイドさんは“芦田さん”という小母さんガイドで一生懸命説明してくれる。この後に行った真田郷でのガイドさんは芦田さんのご主人だとか。夫婦でボランティアガイドって・・・・本当に羨ましいな~。

蕎麦処~琴笙庵

 この後、幹事の手抜きでよく調べもしなかった蕎麦屋さんに行き、得体の知れない天ぷら付きであまり美味くない蕎麦、そのくせ「一人でやってる店なんだから料理運び手伝ってよ!」おばちゃんに毒気を抜かれる。奉仕に当った女性の皆さん、本当に済みませんでした。

  
真田十勇士タペストリー

★《天井裏からチョット加筆》当店のおばちゃんが、長野県魅力発信ブログ > じょうしょう気流 >にUPされていた~ 真田の地を感じる蕎麦処「琴笙庵」(きんしょうあん)2012.07.23 [商工観光課]
 商工観光課のNです。 先日、突然、元気なご婦人が当課へいらっしゃいました。(中略)
 お話しをお伺いしたところ、なんと、上田市内の蕎麦処「琴笙庵」の女将さん、花岡順子さんでした。この女将さんは、南海電鉄高野線の九度山のCMに真田幸村のキャラクターを提供された方です。店の中へ入ると、真田幸村関連グッズでいっぱい!!! 入って左手には真田幸村や真田十勇士のキャラクターが描かれた大きなタペストリー。 このタペストリー中の各キャラクターは、花岡さんが自費で知り合いのイラストレーターに依頼して作製してもらったものだそうです。このうち真田幸村のキャラクターが、南海電鉄のCMに使われました。真田の地を感じながらお蕎麦を味わいたいという方にはお勧めのお店です。女将さんに真田関係のことを尋ねれば、たっぷりとお話をお聴きできます(お急ぎの方にはお勧めできませんが・・・)。 お会計の際には、当店オリジナルの真田幸村のシールまでいただきました。

本城跡から真田の郷を望む

◆ 真田郷

 昼食後、真田氏一族を育んだ真田の郷へ足を延ばしました。
 いました!いました!佐助を始め三好清海入道や由利鎌之助、筧十蔵らがそれぞれ槍や六尺棒、はたまた鎖鎌などの得意の得物を手にして、郷中を闊歩しているではありませんか。思わず駆け寄ろうとしましたが・・・、しょうもない蕎麦屋の祟りで、幻影を見たようです。

 真田氏記念館で真田氏の興亡史を学習。ここには真田氏本城があり、息を切らせて登った痩せ尾根上の郭跡から眼下に広がる真田郷を見下ろすと、何とも言えぬ感懐が湧きおこったものです。

 幸村の祖父幸隆、父昌幸の菩提寺である長谷寺に詣でるつもりだったのですが、時間が遅くなったことと、運転手のグズリで断念せざるを得なかったことはまことにダンネン(断念+残念)。

 帰途、いつもの通り横川で土産の釜飯を買って、家族が待つ現代世界に戻りました。

峠の釜めし

以上
平成28年10月21日幹事 和田 記

  


上田城-真田の郷①


上田城-真田の郷②

◆【2016/11月 史跡見学会】:11月25日(金)
       *『長野の五稜郭』 幹事役:礒・原
  ~チラシはこちら

◆【2016/11月 学習会】:11月21日(月) 13:00~  ヌエック 響書院
 ・・・・・史跡見学会50回・学習会20回記念~特別講座 =茶の湯の歴史&薄茶を体験・・・・・
 (テーマ)*『 茶の湯を楽しみましょう 』 語り・亭主:崎山・長南・小澤・臼澤

        ~チラシはこちら


❏『史歴会』活動だより-(44)

2016/9史跡見学会(第53回)を開催

恒例  秋の山中湖宿泊研修  日本平と久能山、そして箱根神社から箱根関所を訪ねて

 日本平と久能山、そして箱根神社から箱根関所を訪ねて a
 私達の山中湖宿泊研修も5回目を迎えました。月1回の史跡見学会とは、またちょっと趣が異なり、実にクラブ員相互の親睦が深まる、年に一度のイベントに格上げされて、回を重ねるごとに皆の期待が膨らみ、探訪先が大きく広がるだけでなく、車中や宿泊先での交流も年々親密さを増してきて、大家族の感あり。
 「最近つくづく思うんですが、歴史ってやっぱりロマンですよね~」そんな言葉が女性会員の中からも飛び交う、我がクラブの初秋探訪の1ページをご報告させて頂きます。

*9月16日(金)* 

日本平ホテルより

 曇天の元、高坂駅を21名のクラブ員で出発。最初の目的地、日本平に到着する頃には天気の女神が微笑み、車窓より富士山の姿を拝むことも出来る程に。

 “華麗なる一族“の舞台にもなった、眼前に大パノラマの広がる豪華ホテル「日本平ホテル」のロビーを、現地ガイドさんの案内で通り抜ける。知る人ぞ知るこのロケーションに会員一同息を呑む。清々とする程眼下にひろがる眺望に、一同絶賛の声。現在県立自然公園に指定されている日本平は、その昔、日本武尊が東征の際に草薙の原で野火の難にあいながらも平定。山頂に登り四方を眺めたことからこの名が付いたそうです。
 12時 待ちに待った昼食を日本平パークセンター内の大食堂「日本平」で楽しみ、1時間の休憩後再び本日の歴史探訪のメイン、久能山へとロープウェイで出発。

久能山東照宮

 久能山東照宮は徳川家康公を祀る神社として有名ですが、「遺骸は久能山に埋葬せよ」との家康公の遺命を受け、かの名工・中井正清が1年7か月で建てた権現造の社殿は、日光東照宮を始めとする全国の東照宮建築のひな型でもありました。
 車中、小出部長による“家康の遺体はどちらにある?久能山か日光か?”の歴史ロマンの謎解きの学習をして臨んだ私たちの目に、地理的には、楼門・社殿を急峻な久能山山頂に造り、安易な参拝を拒むかのように荘厳にたたずむ久能山東照宮に、そのご遺体があるのではないかと、石造りの階段を登りながら、そうとも思える私でした。

 併設の博物館には、家康公が関ヶ原の合戦の際使用した甲冑「歯朶具足・重要文化財」や国宝の太刀の他、晩年駿府で使用した茶道具や西洋諸国との交易を覗える洋時計や鉛筆、けひきばし(コンパス)等々2000点以上の宝物が収蔵されています。
 3時半、再びロープウェイに乗り5分間の遊覧飛行後、素晴らしい案内役をして下さった駿府ウェイブのガイドお二人と別れ、今夜の宿マーレに向かって出発。

 宿泊先の歓迎を受け、本日は全室貸し切り。部屋割りされた今夜の同室の仲間達と、幹事より決められた順番に、温泉に。疲れた身体を休め、汗を流し、さてこれから始まる美味しい夜の膳と宴会に笑顔が飛び交う仲間達でした。

*9月17日(土)*

マーレ山中湖畔荘

 “うあ~晴れてる!青空だ~”の一声で飛び起きる。まだ5時半。
 昨夜は食堂での宴会後も皆別れ難く、各部屋からコップ持参で私達の部屋に20名以上が集結。思い思いに語り合い、大笑いし、和やかな時が流れ…これが恒例の人気第一の宿泊研修の証かと・・・。贅沢メニューの朝食をお腹一杯頂き、元気に宿泊先を出発。

 8時25分バスは一路、現地ガイドさんの待つ箱根神社へと。
 勅願により箱根権現(箱根神社)を建立した万巻上人(まんがんしょうにん)は、神と仏を結ぶ聖僧であり、奈良時代に各地に神社や仏閣を造った有名な僧。鹿島神宮や伊勢の多度大社の神宮寺を建てたことでも知られています。

箱根神社

 神山(箱根山の主峰)には、箱根大神様といわれる、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)・木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)・彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)の三容の神様がいます。その神様をお祀りしたのが箱根神社です。鎌倉時代になると、源頼朝をはじめ歴代将軍や幕府の要人から崇敬を受け、それ以降も関東の支配者達、そして歴代徳川将軍による手厚い保護を受け、武家だけでなく、民衆の信仰も盛んでした。明治元年の神仏分離で、別当寺である金剛王院東福寺は廃寺となり、箱根神社と称するようになりました。

箱根杉並木

 10時50分、箱根神社から芦ノ湖に向かって下山し、湖面にたたずむ朱の鳥居を見、湖畔を散策。途中、町指定史跡の賽の河原の石仏に出会い、遠い鎌倉時代に思いを馳せました。
 そしてガイドさん案内のもと歩いた、箱根旧街道杉並木が実に印象的。国指定史跡とあって素晴らしい杉並木でした。保護環境も良かったのか日光の杉並木よりも、太くて大きくて立派な杉の並木道を、いにしえを想いつつ仲間達と共に歩ける、今の幸せを有難く思いました。
 恩賜箱根公園まで足を延ばし、午前中の盛り沢山のスケジュールを完歩。

箱根関所

 1時前 昼食会場の箱根関所・旅物語館にてぺこぺこのお腹を満たし、最後の探訪先である箱根関所跡へ。誰もが知る最も有名な関所の一つで、ここは一歩、門をくぐると江戸時代にタイムスリップしたかのような風景が広がり、臨場感を再現した建物でした。関所の歴史は古く、大化の改新の詔に始まったとか。鎌倉時代以降は「関銭」というお金を払って通る関所だったそうで、そのお金は神社仏閣の建立に使用したそうです。江戸時代には軍事的拠点の役目として、全国に設置、53か所もあったそうです。しかし徳川時代が長く続き、やがて平和な時代となるにつれ、その役割も治安維持の警察的機能へと変化。幕府が倒れた後、明治2年に廃止となりました。

 2時半 箱根関所資料館へ。芦ノ湖湖畔に隣接するこの資料館には高札や通行手形などの関所に関する資料が展示されていました。
 天気も良く、明るい中での関所散策は、緊張感も怖さも無く、ふと関所を見下ろす小高い山に建てられた見張り番辺りに目をやった時、往時の山深く草深い山中での一人旅を想像しただけで、ゾクッと背筋が寒くなりました。この時代の誰が、高速道路を飛ばし、新幹線に乗り好きな所を旅し、ジャンボ機で海外にまで行ける自由な時代が来ると想像できたことでしょうね。

 3時半 しばしのコーヒータイムをとってから帰途につきました。
 5時半前に出発地高坂に無事到着。2日間の安全運転でお世話になったバスドライバー安斉さんも、今ではすっかりクラブの一員の様。人との良き出会い、歴史との良き出会いの、今回も盛り沢山の宿泊研修の1ページを、拙い文で綴らせて頂きました。

幹事  長南みどり 記


2016山中湖-①


2016山中湖-②


2016山中湖-③


2016山中湖-④


2016山中湖-⑤

◆【2016/10月 史跡見学会】:10月21日(金)
     *『上田城・真田郷を訪ねて真田一族を偲ぶ』 幹事役:和田・森

          チラシはこちらから

◆【2016/10月 学習会】:10月24日(月) 13:30~  ヌエック 研修室109
       (テーマ)*『 日本人のルーツ 』 語り人:戸張さん

          チラシはこちらから


❏『史歴会』活動だより-(43)

2016/7月史跡見学会(第52回)を開催

 昭和天皇陵・高幡不動尊・新選組ふるさと館を訪ねて

 朝から小雨が降ったり止んだりの7月15日、史歴会第52回見学会を、いつもの埼玉中央観光バスさんのお世話で、8時20分に高坂駅を出発した。
今回は八王子市にある《昭和天皇陵》、日野市にある《高幡不動尊》《新選組ふるさと歴史館》を巡るコースとした。

 関越道坂戸西ICから高速道に入り、圏央道高尾山ICまでの間、本日参拝予定の〝天皇陵〟〝天皇制〟等について、バスの中での『直前勉強会』になる。

  • ●天皇とは
    • ・現憲法では、天皇は「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴である。」(象徴天皇制、第1条)
    • ・明治天皇、大正天皇、昭和天皇の3代の「○○(元号)天皇」という呼称は、その天皇の崩御後に贈られた追号(諡号)である。よって、今上天皇を平成天皇と呼ぶのは、誤りである。追号が元号と同一であるのは先の3代の天皇のみの事情であり、今上天皇の崩御後に平成天皇という追号が贈られると確定している訳ではない。また、現在は《一天皇一元号制》となっており、崩御後天皇が替わったら《元号》も同時にかわる。
  • ●元号は『日本書紀』によれば、大化の改新(645年)の時に「大化」が用いられたのが最初であるとされる。が、当時の木簡に元号が記入された物は無く、701年の『大宝』からは継続的に使用されている。
  • ●皇位継承
    • ・皇室典範第1条  『皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する。』とある。
      終戦後GHQの政策により伏見宮系の10宮家、26人が皇籍離脱により、6人に激減する。日本国憲法・皇室典範では、皇位継承は天皇の崩御が前提で、他に退位の規定は無い。が、「7/13 今上天皇が数年後に《生前退位》の意向を示した。」と、ニュースで流れた。また、今上天皇は今迄の《土葬》から、《火葬》へ、《陵墓》も妃殿下と合葬を望まれた。(報道では、8/8ご意向を表明予定)
    • ・現在の皇室男子の天皇継承順位
      天皇 1位 皇太子徳仁(なるひと)親王(56) 2位 秋篠宮文仁(ふみひと)親王(50)
      3位 悠仁(ひさひと)親王(9) 4位 常陸宮正仁(まさひと)親王(80)
      5位 三笠宮宗仁(たかひと)親王(100) の6名。
    • ・国籍・・・日本国には、天皇の国籍を明記した憲法も法律もない。
      日本国憲法に「日本国民たる要件は、法律でこれを定める。」とあるが、その法律に、天皇が日本国籍を有する要件であるところの日本国民であるという記載は無い。
    • ・裁判権
      • 刑事裁判権  皇室典範第21条が「摂政は、その在任中、訴追されない」と規定。天皇については当然に刑事裁判権が及ばないものと解されている。
      • 民事裁判権  「天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であることにかんがみ、天皇には民事裁判権が及ばないものと解するのが相当である。したがって、訴状において天皇を被告とする訴えについては、その訴状を却下すべきものである。」としている。
  • ●皇室関連の費用
    • 1.皇室の費用は「皇室費」といい、税金から支出。2015年度の皇室費は64億8500万円。この金額は毎年、国会で決められる。皇室財産はすべて国に属し、皇室にかかる費用はすべて予算に計上して国会の議決を経る事と憲法で定められている。細かなルールは皇室経済法という法律で規定されています。
       皇室費は「内廷費」「皇族費」「宮廷費」の3つに分かれています。
      • ・「内廷費」  3億2400万円  内廷にある方々(天皇陛下、美智子さま、皇太子一家の合計5人)
      • ・「皇族費」  2億3000万円  各宮家の皇族に対して支出(合計 5家 15人)
        当主3050万円 妃殿下1525万円 成人915万円 未成年305万円
      • ・「宮廷費」 59億3100万円  儀式、国賓・公賓等の接遇、行幸啓、外国ご訪問など皇室の公的な活動に必要な経費、皇室用財産の管理に必要な経費、皇居施設の整備に必要な経費。
        皇室費の他、宮内庁費が約109億円、皇宮警察本部予算が約80億円、皇室関連の予算合計は約254億円。
    • 2.税金
       皇室の方々の収入である「内廷費」と「皇族費」は所得税・住民税がかかりません。しかしそれ以外の収入、例えば著作物からの印税収入や預貯金の利子、投資での利益などには所得税・住民税がかかります。
       皇族が亡くなられた際は、相続税が発生する。昭和天皇崩御の際、課税遺産総額は約18億6000万円で、その2分の1を相続された香淳皇后は配偶者控除により相続税額は0円、残りの2分の1を相続された今上天皇は4億2800万円の相続税を納めた。
    • 3.皇室を離れる時の一時金
       女性皇族の方が民間の人とご結婚なさった場合、皇室を離れます。その際、一時金が支給され、皇室経済法で計算すると、2015年度の場合は1億5250万円になる。

 この後、昭和天皇について問題を提示(Q&A)。 →はその解答

  • 1. 昭和天皇陵について
    • A. 場所は何処で、正式名称は? → 八王子市長房町 『武蔵野陵』
  • 2. 昭和天皇について
    • B. 第何代の天皇か?      → 第124代
    • C. 生年月日は?        → 1901年(明治34年)4月29日
    • D. 名前は(諱いみな)?    → 裕仁 称号は迪宮
    • E. 亡くなった日は?      → 昭和64年1月7日
    • F. 大喪の礼はいつ?      → 平成元年2月24日
    • G. 墓の形状は?        → 上部2段・下部3段の上円下方墳
    • H. 陵参拝のやり方は?     → 自由 その人のやり方で良い。

 これ等〝天皇家〟に付いての知識を詰め込みながら、バスは9:15頃に《武蔵陵墓地》に到着した。相変わらず小雨が降ったり止んだりで、スッキリした青空とはいかなかった。

【武蔵陵墓地】
左から 表参道杉並木 大正天皇陵 昭和天皇陵

 駐車場から表門を通り、五百メートル程の表参道杉並木の奥に、大正天皇陵「多摩陵」があった。正面に鳥居、石段を登ったかなり高い所に上部2段・下部3段の上円下方墳で、全体に威厳に満ちた雰囲気が漂っていた。天皇が神格化された時代背景がさせた事であろう。その右側(東側)に若干低いが、ほぼ同じ様な形態の貞明皇后陵「多摩東陵」があった。

 西参道を通り、2~3百メートル程離れた所に、昭和天皇陵「武蔵野陵」があった。形態は大正天皇陵とほゞ同じ様に思えたが、高さが低く全体に優しい感じの陵に思えた。そしてその右側(東側)に、ちょっと離れて香淳皇后陵「武蔵野東陵」があった。

 小雨が降り続く中だったので、ここでの参拝は早めに終わらせて、次の予定地の『高幡不動尊』に向かう。昼食は12時からの予約でしたので、12時集合で各自自由散策とした。

【高幡不動尊】
高幡不動尊

 高幡山明王院金剛寺は古来関東三大不動の一つと言われ、高幡不動尊として親しまれている。草創は古文書によれば大宝年間(701)以前、或いは奈良時代行基菩薩の開基とも伝えられるが、今を去る1100年前、平安時代初期に慈覚大師円仁が、清和天皇の勅願によって当地を東関鎮護の霊場と定めて山中に不動堂を建立し、不動明王をご安置したのに始まる。現在の不動堂は康永元年(1342)の建築で、関東では稀に見る古文化財である。続いて建てられた仁王門ともども重要文化財に指定されている。この不動明王像(写真)は、平安後期の様式を忠実に造立された身代わりの本尊として新たに創られた新丈六不動三尊(新本尊 作:北宗像)です。
重要文化財丈六不動三尊は総重量1100キロを超える巨像で古来日本一と伝えられ、現在奥殿に安置されています。

 12時から食事になり、食事後、14時まで各自不動尊内の散策とした。14時に全員バスに集合し、〝日野市と言えば新選組〟との事で、『日野市新選組ふるさと館』に向う。

【新選組】

 江戸時代末期(幕末)に、京都において反幕府勢力を取り締まる警察活動に従事したのち、旧幕府軍の一員として戊辰戦争を戦った武装組織である。文久2年(1862年)、幕府は、将軍・徳川家茂の上洛に際して、将軍警護の名目で浪士を募集し、京都に浪士を集める。この浪士隊が〝新選組〟の基になった。
 日野は新選組副長土方歳三や、六番隊長井上源三郎の出身地であり、日野宿が有りました。日野宿では近藤勇と義兄弟の契りを結び、京に上った近藤・土方らの良き後援者・支援者であった佐藤彦五郎が、問屋兼日野本郷名主を務めており、土方・井上らは佐藤彦五郎の開いた天然理心流の佐藤道場で、近藤勇や沖田総司と共に剣術の稽古に励んだ所です。

新選組ふるさと館

 鳥羽・伏見の戦いで敗北した新選組は、江戸に下る。再起を期した甲州勝沼の戦闘にも敗れ、下総流山に陣したが、ここで近藤勇は捕われの身となり、板橋宿庚申塚において斬首される。土方は更に宇都宮、会津、仙台と転戦後、榎本武揚と謀り函館五稜郭に入る。蝦夷地(北海道)の独立を求めるも認められず、薩長軍の攻撃を受け、明治二年五月十一日、松前街道一本木関門に於いて、馬上諸兵隊を指揮中に戦死する。ここに幕府軍壊滅と共に、新選組壊滅となった。

 ここ『新選組ふるさと館』では、甲州街道と日野宿の歴史、新選組の成り立ちなどについて、ガイドさんの講義を受けた。良かったのは、袖口がダンダラ模様の浅葱色の羽織や、大小刀、靴などの小道具が揃えてあり、新選組隊士になりきって写真を撮れる土方歳三コーナーがあった事だ。みんな隊士に成りきって写真を撮った。
 この後、計画では行けないと思っていた『日野宿本陣』へ向う。

【日野宿本陣】

 この建物は嘉永2年(1849)正月18日の大火で焼失してしまった主屋にかわるものとして、10年以上もの準備を費やし、文久3年(1863)4月に上棟され、翌年完成しました。幕末に日野宿の問屋と日野本郷名主を務めていた佐藤彦五郎が本陣兼自宅として翌元治元年(1864)12月から使用された建物です。大火をきっかけに自衛の必要を痛感した佐藤彦五郎は八王子千人同心の井上松五郎から天然理心流を紹介され、近藤周助に入門し、自宅に道場も開きました。この道場には、やがて近藤勇や沖田総司、山南敬助らが訪れるようになり、日野出身の土方歳三・井上源三郎らを交えた新選組と日野の人々との物語の幕が開けられたのです。まだ、この建物が完成する前のことでした。 

 日野の豪農佐藤彦五郎の自宅も兼ね添えていたとの事で、すごい木材を使った豪邸であった。この様な豪農の後ろ盾があったればこそ〝新選組〟も京都で活躍が出来たのだろう・・・。

 これで今日の史跡巡りも終了となり、中央高速・圏央道を通って、18時頃に無事高坂駅西口に着いた。 小雨が続いた中、お疲れ様でした。

幹事 青山 昇 記


❏『史歴会』活動だより-(42)

「6月学習会(第18回)」を開催 ★☆

テーマ:『司馬遼太郎の世界』 語り人・松山 孝基氏

司馬遼太郎は、なぜ昭和という時代を歴史小説化しなかったのか?

 歴史を学ぶ者としては、少なからず司馬遼太郎の歴史観・知識の深さに圧倒され、また影響を受けている、のではなかろうか。蛇足ながら、筆者が本格的に司馬作品に出合ったのは、現役時代の中間管理職研修会での教材の中であった。それは、「坂の上の雲」のリーダー像の読み取り・解読であった。その後、少しずつではあるが司馬作品に触れながら、史実に近い小説(歴史著述家)の風に魅力を感じ、その考え方に傾倒していった。

 6月学習会の語り人・松山氏も、話のはじめに「司馬さんの作品を読み進むうちに、そのユニークな発想と特異な歴史認識にずんずんと心が引き込まれていった」と述べられている。没後20年を経過した今でも・今だからこそ学習会のテーマとして選び、司馬作品を通して彼の「考え方と魅力」を紹介したい、とのことであった。

 時間の制約上、学習会で松山氏が取り上げた作品は、以下の4点であった。

①「明治という国家」②「この国のかたち」③「21世紀に生きる君たちへ」④「洪庵のたいまつ」

緒方洪庵

 松山氏は、上記4作品の抜粋した文章コピーを準備され、これらを教材に受講メンバーに丁寧に紹介&解説されていた。また氏は、講義の合間にタイミングよく我々受講者に課題を問いかけ、そして意見交換を共有しながら講座を進められていた。松山講師の熱弁とメンバー各位の活発な発言もあり、講座中途にあるいつもの休憩タイムもとらずの状況、そしてそのまま学習会はエンドを迎えた。お陰さまで、短時間の中「明治から昭和にかけての司馬ワールド」を楽しむことができた。

 さて、学習会での具体的な内容をこの際文面に求めるのはやめにして、以下もう少し歴史好きの方々が周知の「司馬遼の一端」を勝手に記して、6月学習会の受講感想に代えたい。

 司馬さんは「日本人とはなにか」を追求した作家として世人は認識しているはずである。そのことの意味する作品を多く世に出し、いわゆる司馬史観を作ってきた。

 今回の松山氏学習会でも、その中から①~④の作品がピックアップされ、しっかり解説された。

 ところで、司馬遼太郎の出発点は自身の戦争体験にある、といわれる。

  *なぜ当時の陸軍では、このような不合理がまかり通ったのか?
  *いつから日本は、そのような国になってしまったのか?

 司馬さんは1905年(日露戦争勝利)から1945年(太平洋戦争敗戦)のあいだの40年間を「鬼胎の時代」と呼ぶ。それ以前とは非連続な特異な時代。しかしそのずっと以前から、日本人の中には、なにか種(病根)みたいなものがあって、それがこの鬼胎の時代に噴出してきたのではないか。例えば日本人に昔からある悪い特性として、

  ○ ひとつの空気のような流れができると、それに押し流される
  ○ 日本人は、守備範囲は効率的だが、想定外の事態には対応が弱い
  ○ 情報を内部に貯め込み、組織間で共用しない

 先ほどの疑問を追求するために、司馬さんは『戦国時代から始めて幕末まで』の小説を書き、その中で日本人とはいかなるものか、日本人のリーダー像はなにかを常に考えてきた、といわれる。

 18才選挙権も今夏からはじまる現在、今の若い人達は司馬遼太郎を読むのだろうか。
司馬さんが若者に残した遺言、~「21世紀に生きる君たちへ」「洪庵のたいまつ」等々
   (1)思いやりのこころを持つこと
   (2)自己を確立すること
がどういうことなのかを具体的に理解するためにも、是非、司馬小説を読んで、すばらしい日本人に触れてほしいと願うところである。~司馬作品が多すぎて大変ではあるが・・・・・。

 最後に、一方、司馬史観なるもので、司馬遼太郎批判というものがある事実も、付記しておく必要がある。司馬遼太郎の二面性、つまり小説家としての司馬さんと評論家としての司馬さんを、ごちゃごちゃにすることから生じた批判であるが、小説家としては、歴史というものに興味が無い人をも歴史にひきつけていく、ガイドとしての功績は非常に大きいと思われる。また、「日本人とは何者か」という歴史評論家としての彼の鋭い切り口は、今なお色あせることなく、傾注に値するものがあるのではないだろうか。

記)鳩山 読人


6月学習会フォト~司馬遼

◆2016-7月例会のご案内~八王子・日野界隈
                   ~チラシはこちら


❏『史歴会』活動だより-(41)

2016/6月史跡見学会(第51回)を開催

早稲田周辺の大名屋敷跡を訪ねて

 史歴会第51回見学会は、都内早稲田周辺に残る大名屋敷跡周辺の名跡を訪ねて、江戸の名残りを探索した。
 通勤ラッシュが解消した朝9時30分、女性11名・男性10名計21名のメンバーは東京メトロ副都心線・和光市駅ホームに集合、乗車30分弱の西早稲田駅に向かった。降車後は、西早稲田駅から一駅手前の雑司ヶ谷駅間の名跡を訪ねての約6km、すべて徒歩での行程、暑さで無理なら途中離脱も可?・・・、幹事としては2回の下見の末立案したプランである、念のため。

*最初は駅から5分の真言宗『玄国寺』。創建は慶長6年(1601)との事、事前にお願いしてあったとはいえ住職・坊守さんの丁重なお出迎えを頂き、お茶の接待を受けながら寺の縁起をご説明頂いた。

①玄国寺~笹竜胆

 山門を入ると右手に庫裡がある。建物は明治の元勲『岩倉具視』公の旧邸を移築したものとの事、公は村上天皇の血筋をひく源氏の一門ということで鬼瓦に笹竜胆(ささりんどう)の紋章を見ることができる。ちなみに明治16年、病の床にあった岩倉具視を明治天皇が見舞いに訪れたときの建物と言われている(移設前は馬場先門にあった)。庫裡の玄関右には樹齢600年といわれる黒松の巨木が、雲の中を昇天する龍の形にも似てそそり立っている。
 ご住職らの見送りを受け山門を辞し、すぐ隣の『諏訪神社』に向かった。玄国寺はこの神社の別当寺であったと記されている。

『諏訪神社』は徳川家とのつながりが強く、寛永年間(1,624~1644)に3代将軍家光が社殿を造営、鷹狩の折には立ち寄るようになり、4代将軍家綱は鷹を奉納、鷹狩関連の絵馬が多数奉納されているとの事、残念ながら今回は拝観できなかった。
 現在の社殿は昭和55年の建築。正面に菊の御紋が大きく目立つが、これは明治15年、近くに近衛隊大久保射的場が建設され、開場式と射的砲術の天覧所が境内に設けられたためで、明治天皇射的砲術天覧所阯の史跡碑が建てられている。

水稲荷神社

*諏訪神社を後にして歩くこと15分、有名な堀部安兵衛の「高田馬場の仇討のあと」付近を通過して『水稲荷神社』へ到着。「江戸名所図会」には文亀元年(1501)扇ガ谷上杉家の当主・上杉朝良が霊夢によって宮を再興したと記されている。
江戸時代の半ば、境内のエノキの根元から霊水が湧出、この水で目を洗うと眼病に効能があったとされ、評判になり、水稲荷神社と呼ばれるようになったとの事である。(今では湧水はなくカラカラの状態だったが!)水に関係の深い消防関係者や水商売の人々に信仰されるようになったようである。

*水稲荷の北側に隣接する『甘泉園公園』に移動。

②甘泉園公園

江戸時代の初めは新発田藩主溝口家の屋敷であったものが、宝永7年(1710)に尾張徳川家の下屋敷となり、その後明和年間(1764~1772)に徳川御三卿の清水家下屋敷になった。明治になって相馬子爵家に譲られ、昭和12年から早稲田大学の所有となり”甘露な水が湧き出す泉”ということで早稲田大学付属甘泉園と名付けられ、その後新宿区に移譲され、昭和44年新宿区立公園になったとの事である。庭園は広くはないが(比較の対象が?)、斜面の湧き水から滝を作り、上段の池、下段の池の2つの池に注ぎ、深山幽谷の面影を演出している名園である。
 この時点で正午12時になり、徒歩で20分ほどの早稲田大学大隈庭園に向かった。

③早稲田大学~大隈講堂

*リーガロイヤルホテルの正面玄関から、一行21名はウォーキングスタイルで通り抜け、ホテルの裏庭ともいえる『早稲田大隈庭園』に入った。明治17年伊予松山藩松平家の抱屋敷だったこの屋敷を政治家大隈重信が入手、もともとの庭園を和洋折衷に改造、東側に芝生の庭園、流れと池を境に西側は和の庭園となっている。
 大隈重信は大正11年(1922)に没し、故人の遺志により庭園は早稲田大学に寄贈され、大隈講堂の塔が背景に映える若い学生達の憩いの場となっている。
 我々“いきがい大学生”は、孫と同年代の若い学生のひと息でむんむんとする、広大な大学学食で昼食を取り、一時の若さを満喫した!(さすがにアルコールはない)

*1時間余の休憩後、再びリーガロイヤルホテルを通り抜け、神田川を渡り歩くこと10分余の『関口芭蕉庵』に到着した。ここは俳人松尾芭蕉翁が2度目の江戸入り後、旧主筋の藤堂家が神田川改修工事を行っていて、芭蕉はこの工事にたずさわり、1677年から3年間この地に住んだといわれている。現在の建物は第2次大戦後に建てられたもの。園内は池や庭園が整備され、芭蕉の句碑もあり当時の面影を残す風情となっている。

④新江戸川公園

*我々はしばし俳句の世界に浸り、散策を楽しんだ後、隣接する『新江戸川公園』に移動した。この地は江戸末期、徳川御三卿の清水家の下屋敷になり、一橋家の下屋敷に転じて、幕末に肥後熊本54万石の藩主細川家の下屋敷・抱屋敷となり、明治時代には侯爵となった細川家の本邸となった。園内には細川家の学問所として使用されていたとされる2階建ての『松聲閣』(明治20年建設)が建てられており、2階から見た景色は、とても都心にいるとは思えぬ、ビル一つ見えない素晴らしい広大な日本庭園が広がっている。

*園内を歩いて小山を登ったところに、細川家伝来の美術品や歴史資料を展示した『永青文庫』が建てられている。理事長は18代当主の細川護煕氏(元内閣総理大臣)で歴代細川家に伝わる美術品、歴史資料や16代当主保川護立公の蒐集品が収蔵され、展示されている。我々が訪れた時には、『千利休と武将茶人』の展示が併催されており、茶道にたしなみのおありになるメンバーにはさぞや目の保養になられた事と思われた。
 隣接されている別館には理事長護煕氏の揮毫された書画、陶器が展示されており、一行はコーヒー・茶菓子をご馳走になりながら鑑賞させて頂いた。

*少々お疲れ気味の老体にむち打って、目白台の高級住宅街を歩くこと20分、最終目的地の『日本女子大学』にたどり着いた。我々年代には、有名なあのポンジョであろうか。

 門を入ってすぐの所に『成瀬記念館』がある。(早稲田大学と異なり、校内の散策は禁止された、当然か?) 
 成瀬氏は日本女子大の創設者で、1858年(安政5年)生まれ、NHK朝ドラの『あさがきた』の広岡浅子の友として登場している。広岡浅子の協力を得て、当時の三井財閥から、広大な東京・目白の地(現在地)を寄贈され1901年(明治34年)日本で最初の組織的な女子の高等教育機関であった日本女子大学を創設した。記念館では成瀬氏生涯の紹介とゆかりの品々が展示されおり、訪問時には、ちょうど広岡浅子の展示も行われていて、その関連を学ぶことができた。才媛揃いの会員にはジャストな締めくくりであった、と自画自賛。

 最後の力を振り絞って、終着地点・副都心線雑司ヶ谷駅へ、10時から15時30分まで本日の史歴会終了。 歩くこと2万歩、少々ハードな探訪だったかな~? 少し反省!

幹事 山本稔 記

仕切り線

早稲田界隈歴史散歩①

早稲田界隈歴史散歩②

早稲田界隈歴史散歩③

◆【2016/7月 史跡見学会】:7月15日(金)
      *『八王子・日野界隈の歴史散策』 幹事役:青山・吉本

          ・・・・・①大正・昭和天皇陵 ②高幡不動尊 ③新選組のふるさと歴史館


❏『史歴会』活動だより-(40)

2016/5月史跡見学会(第23回)を開催

史歴会50回記念見学会報告

【史跡見学会50回】の節目に想うこと・・・

 専科2期からスタートした史歴クラブ見学会も遂に50回目の節目を迎えた。
(27期からだと23回目になる)
 一口に50回と言うけれども、その陰には担当幹事の涙ぐましい努力と苦心が潜んでいる。見学会には、小型バスを利用し歴史探訪する場合と、電車で行きその地を探訪する場合と二通りある。

 小型バスの場合は、気心の知れた運転手さんに無理をいい、かなりマニアックな場所まで運んでもらい、各地の歴史の陰に潜んだ人物・史跡等を思う存分堪能できる。但し、ある程度参加人数が集まらないと、バス代金支払の関係で参加者の個人負担がアップしかねず、担当幹事にとっては、精一杯電話をかけたりして必要参加人数を確保すべく努力が必要になる。

 一方電車利用見学会は、人数がある程度以上集まると移動中にバラケたがるので何とか集団を纏めるのに苦心する。特にメトロは階段が悩みの種。また、半日ほど見学すると会員諸氏の足どりが急に重くなるので、担当幹事は心ならずも後ろから叱咤激励しなければならない。

 何はともあれ、各回担当の幹事それぞれが、会員の皆さんに歴史的遺産を十二分堪能していただきたいと言う一心で頑張ってきた50回であった。ここまでやって来られたのは、史跡クラブスタートから長年チームワークづくりに気を使ってこられた小出会長の頑張り、そして史跡めぐり大好きな会員諸氏のご尽力・ご協力あってのものといえる。

 まだまだ道半ば、「100回目まで頑張ろうじゃないか!」が数年前からの史歴会スローガンである。やる気満々の会員諸氏も気力充実 100回目くらい難なくクリア出来ることを確信している。

  

5月史跡見学会

  

 築地市場見学と隅田川周辺探訪 

 今回は午前中「NHK放送博物館」観覧と、今年11月移転が決まっている「築地市場」で美味い本場寿司を味わい、午後は中央区文化財サポーター協会の方々のサポートを受け「明石町に明治の面影を窺う」見学会とすることに的を絞った。


東京築地ホテル館 歌川芳虎画 明治3年(1870)

 「皆さん 私の後にお続きくださ~い」、元気一杯の長南幹事の号令でぞろぞろ続く様子は、カルガモご一家のお引越しそのもの チョットばかりひねたコガモ達が遅れまいと地下鉄の迷路を必死に歩く。

 最初に向かったのは愛宕山「NHK放送博物館」である。ここは、見学無料の知る人ぞ知る都内見学の穴場である。ラジオ本放送が初めて開始された記念すべき愛宕山の山頂にありテレビ放送の誕生からデジタル放送までの歴史を体系的に展示されている。中でも皆さん期待の愛宕山8Kシアターで200インチの大型スクリーンと22.2マルチチャンネルにより、8Kスーパーハイビジョンの素晴らしさを体感した。

  

 次に、お腹を空かせた会員諸氏は、お待ちかねの魚がし横丁にある「礒寿司」さんへと向かう。築地市場は平日と言うのに人・人・人で大混雑、やっとすり抜け築地場内にある礒寿司さんへ到着。ここで見学会50回を記念し乾杯、礒寿司さんのポリシーであるその日一番の旬ネタ(鮪1本買い入れそれを握った)これぞ本物のトロ寿司・礒汁に舌つづみをうつ。

 楽しい昼食時間はアッと言う間に過ぎお店を後にする。築地場外商店街を縫うようにし、中央区文化財サポーター協会の方々との待ち合わせ場所・築地本願寺前に集結。

 ここから、サポーター協会・天野会長のご挨拶と指示を受け3班に分かれて案内をしていただく。

  • 1、 築地本願寺 インドの寺院風の外観と異なり、本堂内は伝統的な浄土真宗寺院の造りの厳かさと、もしかしてミスマッチではと思われるパイプオルガンの由来を聴かせてもらう。
  • 2、 波除稲荷社参詣 築地一体の埋め立て工事に際し堤防が破壊され工事が難航した時に、海中よりお稲荷さんの像を発見し祭ったところ無事完工したとか。
  • 3、 軍艦操練所跡 徳川末期幕府の建てたもので 勝海舟も頭取として操船技術を学び教えた場所と紹介された。
  • 4、 勝鬨橋から隅田川テラスを散策する、ゆったり流れる大川を行く観光船、パリのセーヌによく似た風景にウットリ。
  • 5、 聖路加ガーデンで休憩 その後 電信操業の地(電柱代わりに樹木利用したとか)・シーボルト胸像・慶応義塾発祥の地・芥川龍之介生誕の地・浅野内匠頭邸宅跡などなど、サポーターさんが皆さんの熱意につられてつい説明し過ぎてしまい疲れさせて申し訳ありませんと謝罪したくらい十二分に楽しませていただき、帰路についた。
  • * 説明不慣れなサポーターもいて班により差ができたことが残念であったが、サポーター協会も只今サポーター養成中とのこと。ご寛恕いただきたく幹事としてもお詫び申し上げる次第です。
  • * ここで種明かしをしますと、全員無事にしかもスムーズに設定時刻どおりに行動できたのは、数日前に長南幹事がお一人で歩き、最短路線で案内できるよう自分で絵入りの地図を作成、博物館、すし屋さんへはご挨拶を済ませておいたとか。実にそつのない配慮があったことをご紹介して稿を閉じます。

(幹事)新井 英雄

仕切り線

築地散歩①~NHK放送博物館、築地市場

築地散歩②~築地をぐるっと歴史散歩

築地散歩③~歴史散歩つづき

仕切り線

◆【2016/6月 史跡見学会】:6月17日(金)
   *『早稲田周辺の大名屋敷跡を訪ねて』 幹事役:西沢・橋本・山本小・山本稔

◆【2016/6月 学習会】:6月20日(月) 13:20~  ヌエック 研修室109
  (テーマ)*『 司馬遼太郎の世界 』 語り人:松山さん
 ~チラシはこちら


❏『史歴会』活動だより-(39)

「4月学習会(第17回)」を開催

 テーマ:王朝時代の雅『伊勢物語を楽しもう』 語り人・新井 英雄氏

 27年度より、新生「史歴会」として新たにスタートした、私達の校友会クラブの28年度総会と、第17回目をむかえる学習会が4月18日にヌエック研修棟にて行われました。
 この28年度より懐かしい学び舎である東松山学園の木造校舎を卒業し、新たに学びの場を国立女性教育会館に移しての最初の記念すべき日でもありました。

【H28年度クラブ総会】

史跡ヒストリー5年目~総会発表資料

 午後1時より研修室206にて、まず例年通り受付にて年会費の徴収、総会資料の授受を済ませ、会員28名の内23名の出席のもと、総会は小出部長の挨拶と平成27年度活動報告で始まりました。その発表資料は27期校友会ホームページでもご覧いただけますが、この日は「史跡ヒストリー5年目」と銘打って、一年間の探訪先の思い出がたくさん詰まった写真集を第40回目から第49回目まで(H27年度活動分)プロジェクターを使ってスクリーンに映し出しての活動報告でした。このスライドを見た時には、 “こんなに色んな所に連れて行ってもらったんだね”と、あらためて感謝し感動を共にしたひと時でした。

 続いて同様に、第12回目から第16回目までの学習会の講義風景が映し出されると、そこには真剣にノートをとり、語り人に熱い視線を向ける会員の顔が。こうしたひとつ一つの積み重ねが私達の宝物であり、学ぶ喜びであり、生きる力になっているのかもしれないと気付かされました。

 続いて、会計報告、活動計画案、予算案が担当者より報告提案され、全て満場一致で承認され28年度総会は予定通り無事終了。

【第17回学習会】

 休憩時間をはさんで、和気あいあいの中、28年度初めての学習会が講師“新井英雄”会員によってスタート。多岐に亘って博識の新井氏が、今回選んだのが王朝時代の〝伊勢物語“でした。

 その中の有名な「初冠(ういこうぶり)」「東くだり」「筒井筒」「梓弓」の4段を取り上げた講義資料を各自机に広げ、まるでそれは高校の授業風景を想わせる学習会でした。人間描写や自然描写が豊かな言葉で婉曲して綴られ、読み手の想像をふくらませ、こんなにも日本の古典文学が表現豊かで素晴らしいものだったのかと実感いたしました。

 それにしても、いにしえの人々が、自分の思いや目の前に見える景色を直ぐ和歌にして読む優れた感性や教養にあふれていた事に驚いています。新井氏は、私達を平安時代にタイムスリップさせるかの如く、古文を読み聞かせ、当時の貴族、庶民の暮らしぶりから衣裳にまで話を広げ、聞き手の私達は“なるほど、なるほどそうだったのか”と感心しきり。

 史歴会では、あらゆる分野から歴史をひもとき、学ばせて頂ける機会が多いのも嬉しいことの一つです。春爛漫の季節、王朝時代の古典に浸り 雅な時もあっという間に過ぎ、新井氏の学習会終了時間となりました。

記)長南 みどり

学習会スナップ


❏『史歴会』活動だより-(38)

2016/4月史跡見学会(第22回)を開催

逆井城&将門公史跡めぐり 《 春疾風 坂東の気を 伝えけり 》

 4月の探訪先・坂東市では、“坂東太郎“の友人“坂東風太郎”が出迎えてくれ、乳母桜とは?・・・との薀蓄も飛び出す中であったが、見事に史跡とコラボした名残の桜が、我々を楽しませてくれた。

将門~豊国

 さて、史歴会も新年度を迎え、嬉しいことに1名新メンバーが仲間入り。そして総勢22名が参加した4/15(金)の史跡見学会は、3月同様にぎやかな小型サロンバスでの出発と相なった。今回は、「源氏さかのぼり日本史」と称して、武士団発祥の過程を感じとりたく、ご存知『平将門公終焉の地』といわれている坂東市に注目、当市にある将門公ゆかりの史跡を訪ねてみた。

 行程は、まず戦国期の復元遺構「逆井城跡」、メインの「平将門公ゆかりの史跡めぐり」、そして最後は隣接する常総市の「一言主神社」であった。
 以下、探訪先について簡単なガイドとコメントを記してみた。

  

◎「逆井城跡」・・・茨城県指定史跡

戦国時代末期に後北条の北関東進出拠点であった城。
豊臣秀吉の小田原攻めによる本拠地落城に伴い、逆井城も廃城となった。

○当地の史跡復元力の高さに驚く。(対比:鉢形城跡、松山城跡)
 そのお陰で、戦国期の城郭についての理解が一段と深まった。

◎「平将門公史跡めぐり」・・・国王神社の「本殿・拝殿・将門座像」は茨城県指定文化財

平将門公は、今から1000有余年前、関八州を手中におさめ、自ら「新皇」と称した。
天慶3年(940)、将門公は「坂東市岩井の北山の戦い」で、藤原秀郷・平貞盛らの連合軍に敗れる。(後に「天慶の乱」という)。東国における武士の発生と成功への道筋を、歴史上初めて鮮やかに照らし出した事件であった。

◆(ゆかりの地を歴史散策)

① 国王神社・・・将門公を祭神とする神社。三女・如蔵尼が33回忌に父の姿を刻んだ座像が御神体。
~② 石井営所跡(島広山)・・・承平5年(935)、ここに石井の営所を築き軍事上の拠点とした。
~③ 延命寺 ~④ 石井の井戸 ~⑤ 一言神社 ~⑥ 平将門公文学碑 ~⑦ 平将門公騎馬像
~⑧ 延命院
・・・将門公の胴塚があり、将門山といわれている。石塔婆(大手町の首塚より)あり。
○拝殿・幣殿・本殿からなる社殿は、『茅葺きの権現造り』である、これはレアだ。

◎一言主神社・・・伝統芸能の「からくり綱火」は茨城県指定無形民俗文化財

大同4年(809)、社殿周辺に奇しき光とともに雪の中からタケノコが「三岐の竹」となり、お祓いをしたところ御祭神の一言主大神が現れたといわれている。ご祭神は、一言だけの願いを言っても聞き逃さず応えてくれる神様といわれている。尚本殿は、一言主大神を篤く信仰していた下総国守谷城主・相馬弾正胤広侯(平将門の後裔)の寄進によって長禄3年(1459)に再建された。

○「立派な社殿」と「一言だけの願いでも疎まず聞いてくださる」、との興味から参拝。本殿の造りは一間社流造(いっけんしゃながれづくり)で、屋根は桧皮葺風の銅板葺。身舎(もや)外壁の左右に「鳳凰と牡丹」、後側に「鶴と牡丹」の彫物、脇障子には「三岐の竹」の彫物がはめられている。

 最後に、坂東太郎ならぬ「坂東風太郎?」とコラボした一日であったが、「坂東市ふるさとガイドの会」の方々のお陰で訪問の付加価値が高まり、想像以上の有意義な時間を過ごす事ができた。
 これからも坂東市の親善大使として、ガイドの会の皆様方のご活躍を祈念する次第である。

(幹事)鳩山 旅人


坂東市めぐり-①


坂東市めぐり-②


坂東市めぐり-③


坂東市めぐり-④

◆【2016/5月 史跡見学会】:5月20日(金)・・・「5月例会のご案内」は後報
   *『築地方面・・・(電車)』   幹事役:新井・長南

◆【2016/6月 史跡見学会】:6月17日(月)      チラシはこちら
   *『早稲田周辺の大名屋敷跡を訪ねて』 幹事役:西沢・橋本・山本小・山本稔


『史歴会』活動だより-(37)

「2016/3月史跡見学会(第21回)」を開催

江の島・鎌倉で「源氏ゆかりの地めぐり」

 《史歴会》の学習会で、一昨年の6月には〝源氏奇跡の勝利〟、そして本年2月は〝源氏悲劇の将軍たち〟と2回に渡り、源頼朝による『鎌倉幕府の成立』から、源実朝暗殺で終る『源氏将軍の終焉』までを学びました。そんな事で、今回の史跡見学会は、『江の島・鎌倉で源氏ゆかりの地めぐり』としました。

 東京には4日も前に〝桜の開花宣言〟が出されていたので、江の島・鎌倉では・・・・?との期待を胸に、3月25日朝8時30分『史歴会』のバスが高坂駅前を出発した。〝パワフルな中年〟を自負する史歴会の面々ではあるが、1・2月は寒さとの戦いに専念した。今回は昨年12月以来の久し振りの史跡めぐりの為か、または青春時代の思い出の地『江の島』がコースになっている為か、多数の会員が参加してくれました。

 圏央道のバスの中では、4月の史跡巡り幹事の小出部長より、4月例会は『逆井城&将門公史跡めぐり』と言う事で、茨城県で坂東武者・武士団発祥に関わる史跡を訪ねる企画、また新井さんからは4月の学習会は、王朝時代の雅『伊勢物語を楽しもう』と言う新井さんらしい優雅な学習会を、また、引き続き5月の史跡めぐりも都内築地を中心に企画中である、との報告がなされました。

 その後、本日のテーマである〝源氏と江の島の関わり〟〝源氏と鎌倉の関わり〟などについて、レクチャーが有り、予定時間より遅れてしまいましたが、10時30分頃に江の島に到着しました。

≪源氏と江の島≫

随身門

 552年、欽明天皇の勅命により、島の南の洞窟(御窟(おんいわや)・現在の岩屋)に神様を祀ったのが、江島神社のはじまりであると伝えている。その後、文武天皇四年(700年)に、役小角(えんのおづぬ)という修験者が、江の島の御窟に参籠して、修験の霊場を開いた。そして、弘仁五年(814年)に空海が岩屋本宮を、仁寿三年(853年)に慈覚大師が上之宮(中津宮)を創建する。

 鎌倉時代には、岩屋に参籠して戦勝祈願を行った源頼朝が八臂弁財天と鳥居を奉納。建永元年(1206年)に慈覚上人良真が源實朝に願って下之宮(辺津宮)を創建しました。このことから“戦いの神”としての弁財天信仰が広がり、東国武士たちが多く江の島を訪れるようになった。

 1600年代に奥津宮が創建され、岩屋本宮に海水が入りこんでしまう四月~十月までの期間、岩屋本宮のご本尊が遷座された所で、江戸時代までは本宮御旅所と言われていた。
 江戸時代になってからは泰平の世となり、江島神社は“戦いの神”から“芸能・音楽・知恵の神”として、また“福徳財宝の神”として信仰されるようになった。

1 辺津宮
建永元年(1206年)、時の将軍・源實朝が創建。延寶三年(1675年)に再建された後、昭和五十一年(1976年)の大改修により、権現造りの現在の社殿が新築された。

2 奉安殿
江島神社のシンボルである弁財天を祀る奉安殿。辺津宮の境内にある。八角のお堂・奉安殿には、八臂弁財天と、 日本三大弁財天のひとつ(安芸の宮島・近江の竹生島)として有名な裸弁財天・妙音弁財天 が安置されています。

中津宮

3 中津宮
仁壽三年(853年)に慈覚大師が創建。元禄二年(1689年)に、五代将軍・徳川綱吉により、本殿・幣殿・拝殿からなる権現造りの社殿が再建されました。

4 奥津宮
奥津宮は、多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)をお祀りしており、多紀理比賣命は、三姉妹の一番上の姉神で、安らかに海を守る神様といわれています。相模湾を臨む岩屋(龍神伝説発祥の地)に一番近い奥津宮は、昔は、本宮または御旅所と称されていた。

 パワフル中年達は、 1 → 2 → 3 → 4 と急な階段をヒーヒー言いながら登り、奥津宮の向いにある太平洋が真下に見える見晴らしの良い≪魚見亭≫の昼食で一息ついた。ビールとシラス丼は旨かった。
 13時頃、バスに戻り鎌倉へ。若宮大路一の鳥居の横でバスを降り、ここからは歩きで元八幡 → 妙本寺 → 鶴岡八幡宮方面に向う。

≪源氏と鎌倉≫

鶴岡八幡宮

 河内源氏の祖、源頼信は嫡子頼義と共に、1030年(長元3年)、「平忠常の乱」を平定。この時、頼義は平直方の娘を妻とし、直方の鎌倉の屋敷を譲り受けた。以後、鎌倉を東国支配の拠点とする。
 1051年(永承6年)からはじまった「前九年の役」では、相模守として、陸奥の安倍頼時・貞任らを征伐した。「前九年の役」後、源氏の守り神である京都の「石清水八幡宮」を「由比郷鶴岡」に勧請(現在の「元八幡」)する。

5 一の鳥居  畠山重保の宝篋印塔
1668年(寛文8年)、江戸幕府四代将軍徳川家綱によって寄進された石造明神鳥居。高さは約8.5メートル。この大鳥居の近くに、『畠山重保』の屋敷があったとされる。重保は畠山重忠の嫡子で、北条時政の謀略によって由比ヶ浜で最期を遂げた。大鳥居の傍らに重保の墓と伝わる宝篋印塔が建てられている。

6 由比若宮(元鶴岡八幡宮)
源頼義は1063年、岩清水八幡宮をこの地に移しお祀りしました。これがいまの元八幡です。117年の後、鎌倉入りを果たした源頼朝は、元八幡(由比若宮)を訪れ、現在鶴岡八幡宮のある地に移し鶴岡八幡宮となりました。

妙本寺

7 妙本寺
この地は現在比企谷と呼ばれ、もとは比企能員の屋敷で、建仁3年(1203)、比企の乱で比企一族が、北条氏を中心とする大軍に攻められ、滅ぼされた地でもあります。妙本寺の開基は、比企能員の末子で比企の乱の時、まだ幼少で京都にいたため生き延びた比企大学三郎能本です。能本は、鎌倉に戻り、日蓮に自分の屋敷を献上したのが始まりです。

8 二の鳥居 段葛
二の鳥居は、若宮大路の中央に築かれた「段葛」の入口にあり、1923年(大正12年)の関東大震災で倒壊するまでは、一の鳥居、三の鳥居とともに徳川四代将軍家綱寄進(1668年(寛文8年))の石造鳥居だった。
段葛は養和2年(1182)3月頼朝の夫人・北条政子が、二代将軍・源頼家を懐妊した時、安産を祈って築いたと言われる。鶴岡八幡宮に向かうにつれて、道幅が徐々に狭くなるようになっており、遠近法によって、実際の距離より長く見えるように造られている。が、我々が行った時は改修中で通れなかったが、サクラは若木に、燈籠なども新品になり、なんか威厳が無くなった様に見えた。尚、改修工事は3月いっぱいで終り、4月から通れるようになった様だ。

9 鶴岡八幡宮 白旗神社
治承4年(1180年)、平家打倒の兵を挙げ鎌倉に入った河内源氏源頼朝は、鶴岡若宮を現在の地である小林郷北山に遷す。以後社殿を中心にして、幕府の中枢となる施設を整備していった。建久2年(1191年)、社殿の焼失を機に、あらためて石清水八幡宮護国寺を勧請し、上宮と下宮の体制とする。
祭神は以下の3柱で「八幡神」と総称される。
・応神天皇 (おうじんてんのう) - 第15代天皇
・比売神 (ひめがみ)
・神功皇后 (じんぐうこうごう) - 第14代仲哀天皇の妃、応神天皇の母
白旗神社は、1200年(正治2年)頼朝の死後、朝廷から「白旗大明神」の神号を賜り、北条政子によって創建されたと伝えられている(祭神:源頼朝、明治になり源実朝も合祀され、祭神となる)

10 源頼朝の墓
鶴岡八幡宮の東一帯はかつて源頼朝の御所を中心に幕府の中枢施設が密集しており、頼朝の墓はその北東にある。頼朝の墓がある一帯には頼朝が葬られた法華堂があり御家人たちの崇敬を集めていたところで、 山の中腹にある現在の墓は1799年に島津藩主、島津重豪(1745-1833)が再建した。

 頼朝の墓では、地元の歴史好きの人?らしき男性が、頼朝と島津家の関係などを説明してくれた。
 鎌倉は江の島と違って階段こそ少なかったが範囲が広かったので、
5 → 6 → 7 → 8 → 9 → 10とずいぶん歩いてしまったが、こんな事もたまにはいいだろう・・・・と、しておこう。
 16時30分がバスへの集合時間であったので、八幡宮三の鳥居へ戻る。

青山ガイド

 期待した≪サクラ≫は、まだまだ開花宣言状態であったが、今回の史跡巡りのテーマである『江の島・鎌倉で源氏ゆかりの地めぐり』は、歩きがメインになってしまいましたが、満足して貰えたのかな?と、自負しています。鎌倉にはまだまだ〝いわく付き〟の所が多いですので、圏央道で一本ですからぜひお出掛けになって下さい。

《記 青山 昇》

  


江の島・鎌倉めぐり ①


江の島・鎌倉めぐり ②


江の島・鎌倉めぐり ③

◆【2016/4月 史跡見学会】:4月15日(金)*『逆井城&将門公史跡めぐり』
             幹事役:小出さん・浅見さん

◆【平成28年度クラブ総会】:4月18日(月) 13:10~ ヌエック 研修棟206

◆【2016/4月 学習会】:4月18日(月) 14:00~  ヌエック 研修棟206
  (テーマ)*『 伊勢物語を楽しもう 』   語り人:新井さん

画像の説明

4月史跡見学会

画像の説明

4月学習会


校友会28年度総会 クラブ報告会

 27期校友会・平成28年度定期総会の「クラブ報告会」において、小出代表がこれまでの活動報告についてプレゼンテーション致しました。

 その発表資料をこちらからご覧ください。